節子の小学校日記

 

ユーモアのあるスピーチ 正しいマナー デーナさんの家庭教育 ほめる教育 

飛び級制度 僕、落第しちゃった 個人授業 星条旗が好き よいグループに導く 

 

このページはアメリカンスクール教職歴30年のベテラン、末吉節子さんの著書で沖縄タイムス出版文化賞受賞の「アメリカンスクール」、及び「アメリカンスクールに学ぶ」、を抜粋して紹介する。沖縄のキンザー小学校を舞台にしたアメリカの小学校教育を子供たちとのふれあいやエピソードを交えてつぶさに見ていく。

著者略歴:末吉節子(すえよし せつこ)1937年8月、沖縄県伊是名村に生まれる。琉球大学教育学部初等教育学科卒業。那覇市立神原小学校勤務の後、アメリカ合衆国国防省立米人那覇中学校に就職、1998年12月31日、キンザー小学校を定年退職。沖縄エッセイストクラブ会員。

著作に、「アメリカンスクール」1992年自費出版。沖縄タイムス出版文化賞受賞。発売元:琉大前書店、沖縄県宜野湾志真志413。「アメリカンスクールの窓から」1995年1月あき書房。「アメリカンスクールに学ぶ」1997年10月自費出版。発売元:那覇出版社、郵便番号901-011、沖縄県南風原町字兼城515−5、などがある。

ユーモアのあるスピーチ        

一部抜粋

年末になると忘年会というのはよく聞くが、クリスマスパーティーという言葉はあまり聞かなくなった。復帰後の特徴の一つだ。沖縄の社会からクリスマスパーティーが遠ざかっていくのだろうか。

1960年代ほどではないが、まだクリスマスパーティーが街で賑やかに行われていた頃、私は毎年催される職場のクリスマスパーティーに友人たちを連れて行った。基地の中のクラブだ。1984年12月中旬、友人の1人を誘った。長年つき合っているが、金網で囲まれた基地内のパーティーに被女が参加するのは意外にも二度めだと聞いて驚いた。

彼女はパーティーには慣れていなかった。 アメリカ社会は同伴社会である。結婚している人は配偶者、そうでない人は恋人か友だちをパーティーに連れてゆく。私の連れに対しては校長はその都度、気を遣う。ホストのような気配りをする。私は友だちに「校長先生です」と日本流に紹介し、校長には「テーリー、私の友だちのK子です」と言った。ボスも名前で呼ばれるのがアメリカ社会である。

校長は 「めんそうれ、ようこそ」と言い、「私の知っている日本語はそれだけです。すみません、話せなくて」とK子に言った。K子はちょっと戸惑い、「私も英語がわからなくてすみません」と言い、頭を下げた。私は二人に、お互いが言った事を説明した。

校長は私とK子を中央あたりの席(みんなをよく見ることのできる席)に案内し、「どうぞ、すてきな時間をお過ごし下さい」と言った。基地の中に入るとき、クラブに入るとき、どこか落ちつかぬ様子だった彼女にいつもの笑みが戻った。席に着くと「あなたの校長ってすてきね!アメリカ人ってみんなそうなの?」「うん、そうなの」と私は言い「見ていて!」と言いかけて言葉をひっこめた。

 日本の社会では社長や校長など目上の人から必ず挨拶を始めるものであるが、アメリカ社会では必ずボスからスピーチをするという慣例はない。私の学校では校長にも「さん」(ミスター)を付けずに名前だけで呼んでいる。改まってパーティーで校長に挨拶させると、仕事の延長の寡囲気だ。楽しさが損なわれる恐れがある。ソーシャルコミティと呼ばれる幹事のような人たちがパーティーを計画し、それを運営する。日本ではよくある「社長にスピーチをお願いします」がなく、また「・・課を代表してAさんに今年の反省をお願いします」もない。各自が連れてきた新しい人との出会いの場であり、同僚と交わす会話を楽しむ時間である。ドリンクを片手に、立ったままのおしゃべりが続く。シャイな日本女性にはこのコーナーは多分苦手であろう。私も初めの頃は「食事はどこ?」と言いたくなったこともあった。昨今では立食パーティーが日本の社会にも入ってきたため苦手な人は少なくなったと思われるが、まだ、年配の女性には辛いコーナーである。ドリンクのあと、あるいはドリンクと一緒に、バフェー式というパーティーもよくある。その夜は、フォーマルなディナー形式のパーティーであることは前もって知らされていた。

あるとき、ディナー式のパーティーで、ソーシャルコミティの一人が校長に職員みんなからプレゼントを渡す、という場面があった。校長は感謝を述べるスピーチの冒頭、「どうしょう、私たちはまた、引っ越しをしなければなりません。つい最近、今の家に移ってきたばかりなのに、皆さんからのこのプレゼントは大きくて(大きくはない)、私の家の飾り棚には入りません」と言った。笑いがドツと起こった。おしゃべりをしていて、幹事が校長に渡す一瞬を見ていなかった人たちも一斉に注目した。笑った。「開けていいですか。」みんなの許可を得て校長はプレゼントを開けた。「ほんとにこれはリビングの飾り棚には入らないです。私の部屋の机の側の棚のうえに飾ります。こんなきれいな人形だから、私は毎日それを見て、私のきれいな奥さんに会うことを忘れないかと心配です。どうもありがとうございました」アメリカ人の好きな流球人形であった。彼の愛妻のジェーンが側でニコニコ笑っていた。

 「校長は今日も何かスピーチをするかな」と思ったから、私はその日、友だちに「見ていて!」と言いかけていたのだ。幹事の「食事が始まりますので席について下さい」の声に、立ってドリンクを持って歓談していた人たちが席についた。静かになった。「ソーシャルコミティが話し合った結果、今年はひとり一人へのプレゼントを廃止し、今晩のディナーの分にまわしました。皆さんの御了解が得られるものと思います。ありがとうございます」と、パーティー開催のいきさつを説明した。校長が手を挙げて、立った。「ソーシャルコミティはいい企画をしたと思います。前もってメニューを見せて貰いましたが、今晩のディナーはとてもいい。今晩はまた、みんな新しい友だちに会えてよかったと思います。ビルのフィアンセが最近米国からきて、今日このパーティーに来てくれました。ステファニーさんです」ステファニーさんが手を挙げた。ドリンクを飲みながら歓談している時に、ビルが彼女を紹介して廻っていたので大方の人はすでに知っている。ビルは五年生のクラス担任である。

 「節子が日本人の友だちを連れてきました。 K子さんです」私の友人をみんなに紹介した。パーティーでユーモアのあるスピーチを校長から開けるだろうという期待はあったが、校長が友人を正式に紹介してくれるとは思っていなかった。ちょっと驚いた。もっと驚いたのは友だちである。校長の言っている英語は分からなくても自分の名前は当然、聞きとれる。「立って会釈をして」と私は彼女を促した。動揺しながら彼女は立ち、会釈をした。拍手が起こった。

 「食事もおいしかったけど、今晩の事は私は一生忘れないわ」友人は帰りの車の中で言った。私の影響を受けて、彼女もオーバーに言うようになったのかなぁ、と私は思った。「日本語が話せなくてすみません」校長のこの言葉が彼女の頭の中に乗っかっている。「自分の語学の無さも恥ずかしく、英語が話せたらなぁ、とつくづく思ったけど、それよりも校長先生が私に『すみません』とはねえ」と彼女は二回も繰り返した。彼女が言いたいの「日本社会ではボスがすみません、とあまり言わない」ということかも知れない。何年か経った今日でも彼女はまだ、そのことを言う。あの校長先生に会いたいなぁ、とも言う。

「パーティーにまた行く? まだ、テーリーが校長なのよ」と私は言う。一つの学校に何年という制限がないから、彼は同じ学校で十年も校長をしている。

 アメリカ人はスピーチをするとき、冒頭にまずユーモアを持ってくる。何とすばらしい方法だろうと私はその都度、感動する。聴衆がドツと笑い、スピーチの80%がこの段階で成功となる。80%の注意をスピーカーに持って行かれた聴衆は残りの20%も知らぬ間にそのスピーカーの話にひきこまれていく。20%の中にもスピーカーはかなりのユーモアを入れるからだ。偉い人は特にそうである。

 アメリカンスクールに赴任したての頃、社会科の指導主事が私たちの学校にきた。教師に与えられた半日間の研修日に講演をするためハワイから来たのである。その頃、指導主事たちはハワイにある太平洋地域教育局長事務所に勤務していた。今は教育局長事務所は沖縄県清涼市字西原の県道五号線沿いにある。

 スピーカー(指導主事)が会場に入ってくる前に研修スケジュールが配られた。一時間半の講演と記されていた。「わぁ、何を話すんだろう。聴けるかなぁ」私は自問した。その頃の私のヒヤリングはとても寂しいものだった。背の高い、ハンサムな白人が校長に紹介され、みんなの前に立った。「こんなにきれいな若い女性の前でしゃべることのできる私は何と幸せ者でしょう! あらかじめ、用意してきたことを忘れなければいいですが…」みんながドツと笑った。講演の内容が理解できるかどうか心配していた私にも理解でき、みんなと一緒に笑った。私の緊張感が一挙に解かれた。

 それ以来、私は日本の社会でスピーチをする機会のあるときは、難しいことは言わないで冒頭にユーモアを入れるように努めている。。。。。略

 

正しいマナー

 

アメリカンスクールにも「スクールルール」がある。直訳すれば「校則」であるが、日本でいう校則とはニュアンスが違う。教師も生徒も「スクールルール」という言葉を使うこともあるが、文書では「小学生としての望ましいマナー」のタイトルとなっている。

学校では、新学年度の前に各父母に「生徒と父母のハンドブック」を郵送している。その中に「キンザー小学校の『生徒としての望ましいマナー』プラン」として次のような事が書かれている。

 

一、常に安全を心がける

例1、歩道を歩くこと。校舎内の廊下を歩くときは静かにすること。(註‥キンザー小学校では約七百 六十人の生徒がいる。その中の六百人余りが近くの高層住宅に住んでおり、徒歩通学である)。交通安全と一人の社会人としてのマナーを修得させるため歩道を歩くことが強調されている。基地内の十字路や交差点では、登下校時にミリタリーポリスが生徒を誘導する。校内に入ってからは、特に芝生や花園の中を歩かないように言われる。

 廊下を静かに歩くことは日本の学校でも変わりないが、アメリカンスクールの場合は少し様子が違う。日本の学校のように、各校時ごとに休み時間はない。教師によっては、生徒のマナーが悪いときなど、午前中一回の休み時間もない場合がある。接業の途中でトイレに行きたくなったときは、手を挙げ、教師に許可を求めて、トイレに行く。他のクラスは勉強中のところもあり、廊下で騒ぐと授業に支障が生じるからだ。

例2、押したり、押し倒したり、レスリング、なぐり合い、なぐり合いゲーム、物を投げる等を慎む。  

例3、鉛筆、はさみなどの学用品の効率的な使用。(註‥物を大事に使うことは、家庭や学校でも強調されている)。

  アメリカンスクールでは、教科書は学校の備品である。はさみも備品で、公共的なものを大事に扱うように厳しく注意される。しかしどこの国でも子どもは子どもであり、やんちゃをしたり、鉛筆のキャップの消しゴムをちぎつたりするのは変わらない。教師はいつも目を光らせていなければならない。

例4、いつも靴は、はいた状態でいなければならない。(火事などの非常時に、外にすぐ出られる状態であることが強く要求されるからだ)。

 「はだしで外へ出ると怪我をする」と校長がこの例4をスタッフに説明する。校長の説明が終わると私は、「高校一年まで、私ははだしで歩きました…。日本文化のクラスでは、畳の部屋に上がるときは靴を抜がなければなりませんがそのときはどうしますか」と訊いた。「そのときは、靴を持ったまま外に出して下さい」と答えたので、教師たちはどつと笑った。                                                                                                                                                                                                                                                 一年の男生徒の一人は畳の上のレッスンでもないのに、私のクラスにくると、よく靴をぬぐ。その生徒は「日本の家では靴をぬいで中に入る」ということをかたくなに覚えているからである。

例5、生徒は常に監督の行き届く範囲にいなければならない。(注:数あるルールの中で一番大事なものである)。

  児童生徒が休み時間に外で遊ぶときには担任の先生か、バラプロと呼ばれる助手が生徒につく。

  昼食時間は食事中と、そのあとの遊び時間中は常に、パラプロがついて生徒を観ている。

 昼食をラウンジで済ませた担任は運動場に行って、生徒を教室に誘導する。『バラプロ』と、は教師を補助する人たちであるが、大学卒であることは要求されない。単位をとって将来教師になるという人もいるが、大抵はお母さんたちである。アメリカ社会ではボランティアが多いが、これは学校が雇った有給職員である。日本の学校の用務員とは性格が違う。

例6、スケーティングやスケートボードはキャンパス内ではいかなるときも許可されない。(註:これは怪我をしやすい。学校としては責任を負えないので禁止されている)。

例7、事前に計画されたクラブ活動などのほかは、生徒は定時に下校する事。(もし、教師が生徒を残す場合にはその旨、生徒の家庭に電話をかけ、何時に帰しますと告げる。万一これを怠ったときには、父母から学校にクレームがつく)。校長はさっそく担任に問い合わせる。いつもの下校時間に児童生徒を帰しても、家庭に着いていない場合にはすぐ父母から連絡が入る。私たちは校内でその子が残って遊んでいないかなどチェックする。児童生徒の登下校時は、子どもの安全を守ることは大切な事で、教師、学校側の責任は重い。日本の学校に勤めている友人にそのことを話したら、「今はさっさと帰る教師が多く、家庭から問い合わせがきても対応できない、又、父母からも容易に問い合わせはこない」とびっくりしていた。

二、特に学牢度の初めには大事であるが、児童生徒は、常に大人の指示に従がう事。教師、校長、バラプロ、その他の学校の職員が児童生徒の安全教育に十分気を配ることが要求される。

  アメリカンスクールの場合は、学力を詰め込むよりは一人前の立派な社会人になるための基本を教えることが強調される。児童生徒の行動が正しく行われ、安全であるかについて、教師は常に注意を払わなければならない。  

三、常に尊敬の念を持とう。

例1、他の児童生徒や教師、大人に村して失礼な態度や話し方をしてはいけない。

例2、生徒は教師の教える権利を邪魔することはできない。

  児童生徒が授業中におしゃべりしたり、隣りの生徒とけんかしたりするのは、授業を邪魔することになる。教師は児童生徒に教える権利を奪われるという認識があり、児童生徒にもそのことが強く要求されている。アメリカ社会は何でも自由なように映るが、他人の権利を侵害するのは、たとえ児童生徒でも強く禁じら れている。小さいときから、そのことは家庭でも教えられている。

例3、個人のプライバシーと所有物を尊敬する。 児童生徒の服装や髪型などは児童生徒の個人の好み、プライバシーに属することであるので、やたらに批判したりすることは慎しまなければならない。「変なかっこう」などと服装をからかわれると、その生徒は「It's not your business.」 (「あなたに関係ないでしょう」)とすかさず反論する。 個人のプライバシーは、小さい時から守るように躾けられる。

 私にも失敗例がある。帽子をかぶったまま教室に入ってきた女生徒がいたので、注意したら「It's not your business.」と言われた.「ここは日本文化を教えるクラスなので帽子をとりなさい」と再び注意したが、その生徒は帽子をとらなかった。帽子は服装の一部で、女性の場合は室内でも帽子をとる必要のないことは私も知っていたが、日本文化の授業なので注意しただけである。

一度注意して帽子をとらなかったのでそのままにした。それからは「きれいな帽子ね」と褒めることにした。

 時間がなくて、家を出るときに、靴を右、左はさ間違えて来たものと思い、男子生徒に「あなたの靴の右、左が反対だよ」と注意したときも「関係ないでしょう。」と言い返された。これなどは女生徒の帽子とは違い、あんまりだと私は思ったが、そのまゝにした。

 それからは「とてもユニークだ」と言うことにしている。アメリカの子供は自分の権利、プライバシーにはとても敏感である。

四、学校を誇りに思い、大事にしましょう。(註‥生徒と父母用に学校が発行しているハンドブックの表紙には1学校は生徒ひとり一人が楽しく学び、その学習目標を達成するところである」と印刷されている)。

 

デーナさんの家庭教育    

 

私たちキンザー小学校には教師が五十人いる。日本人教師は私一人で、残る49人は米国人である。独身者が多く、家庭持ちの教師は少ない。

 日頃、米国人教師の中で仕事をしていると、子供の教育、家庭生活などについて感心させられることが多い。親しく付き合っている同僚のデーナ・メイスンさん(35)からも、アメリカの児童生徒への接し方、ものの考え方などで教えられるところが多い。彼女はとても誠実で、教育にも情熱を燃やしている。彼女の家庭を通して子供のしつけ、教育、生活などを紹介する。

 彼女は、普天間基地に勤務するトム・メイスンさん(35)との間に二男一女の子がいる。トムさんとは十二年前に結婚した。フロリダで小学校教師をしていた。トムさんはニュージャージ州の出身で、その当時フロリダにあるマリン基地に勤めていた。二人は教会で知り合い、十二年前に結婚した。

 沖縄にはトムさんの転勤でやって来た。アジアの小さな島に赴任する夫の後を追っていくのに多少不安がつきまとった。言葉もわからない島でどう暮らしていけばよいのか。。。。

 那覇空港からホテルに着き、先に来ていた夫と再会しても一抹の不安が残った。一カ月は不安が続いた。次第に慣れてくると、「海や木々もきれいで、その自然が好きになった。あとでサンゴが美しいのも分かった。だが、何よりもホットしたのはとても安全な島であることだった」デーナさんは私と話しているとき何回となく「セイフ・アイランド」 (安全な島)という言葉を繰り返した。「夜、だんながいなくても安全である。ここはとても安全なところよ。アメリカでは夜、外に出られません、恐ろしくて」一般に外国人は自衛的で、自分や家族の身の安全をいかに守るかをいつも念頭に置いて行動するといわれるが、同僚のデーナさんの口からそれが強調されたのにはびっくりした。私たちは戦前の沖縄に比べて泥棒や凶悪犯罪が増え、青少年の非行も増加していると嘆いているのに。。。

 長男のクリストファーは十歳でキンザー小学校の四年生。一週間に二回サッカーの練習に通う。ビーチで遊んでいるときに見つけたガラスボールに興味を持ち、その収集に凝っている。現在二百個余り持っている。直径約50センチほどの大きなものからピンポン玉ぐらいの小さなものまでさまざまだ。 クリストファーはそのガラスボールの魅力について作文を書き、キンザー小学校で入賞した。米国人やその家族などを読者に持つ英文雑誌『This Week』主催の「作文コンテスト」 に応募し、見事一位になった。「作文コンテスト」 には、沖縄にある国防省立のアメリカンスクールのほか、「クリスチャンスクール」、「ネイバーフドスクール」などの私立校からの応募者もあった。一位になったクリストファーの作文は 『This Week』に載った。その作文のタイトルは「ガラス ボール」。漁網の浮きに使用されるボールでたまに浜辺に打ち上げられている。クリストファーは沖縄本島ばかりでなく、西表島に家族旅行したときに発見したガラスボールについて、素直な子供の目で綴っている。

 長女のキムは8歳。キンザー小学校2年生。とてもチャーミングな女の子で、小さなエクボが魅力的。とても素直な子である。デーナさんの家族と北中城村にあるプラザ米人住宅術の中の 「バトラーオフィサーズクラブ」 で昼食をしたとき、「ゲストが来るまでは食事はしてはいけない」という母親の言い付けを健気に守っていた。過2回水泳教室に通っている。

その次に二男のニコラス(6歳)がいる。同じキンザー小学校の幼稚園に通っている。三人の子供は両親の言い付けをよく守り、とても行儀がよい。母親のデーナさんはこの三人を車に乗せ、北中城村在の喜舎場米軍住宅地域から浦添市港川にあるキンザー小学校に通勤する。アメリカンスクールは土、日曜日は休みなので毎過5日開通っている。彼女は午前5時45分に起き、家族の食事の用意をする。米人家族の食事は日本に比べると簡単であるが、一家の主婦の仕事に変わりはない。夫と一緒に2台の車で午前6時55分に家を出る。2台は途中で別れ、3人の子供と一緒に学校に向かう。朝が早いので交通混雑がなく約二十五分で学校に着く。学校の仕事を終え、また子供たちと帰るのは午後4時。道路も混雑するので40分余かかる。子供たちは宿題など30分ぐらい勉強したあとは、近所の子供たちと遊ぶ。クリストファーはプラモデルの飛行機を作ったりする。

 朝が早いので就寝時間は早い。一番下のニコラスは午後7時には寝かせる。クリストファーとキムは午後8時頃に。沖縄の子供たちがテレビを楽しむ時間には寝ていることになる。デーナさんは「私は子供にテレビを観せないけど、父親は子供に甘くテレビをよく観せる。それも子供にとってよい番組に限っているが、子供たちは父親から許可が下りると、手をたたいて喜んでいます」という。

 子育てについては「人間としてのモラルを身に付けるのが大事であり、決して学習知識が多ければよいと考えていない。アメリカでも学歴が高く立派な人もいます。また、学歴、地位はあっても人間としてダメな人もいます。これはどこの国でも同じでしょう。金があっても必ずしも幸福とは限りません。学歴があっても他人をけなしたり、気持が卑しい者もいます。私は、それよりも人格的によい人間に育って欲しいと願い、常に教育しています」ダーナさんは立て板に水を流すように話した。熱っぼさを感じた。自分の教育方針に断固たる信念を持っている。「自分だけよければよいという子は、私のクラスにもいました。オール5を取り、確かに頭はよかった。だけど、家庭での躾がしっかりしていないので行儀作法が悪く、そのうえ、協調性に欠けていました。私は自分の子には、そのような事は決して望みません」ときっぱりと言い切った。米軍基地内の住宅でも子供を放任し、テレビも自由に観せている家庭があるのを知っている。それだけにデーナさんの話は私の胸に強く響いた。「アメリカの母親の中にもきちっとしたものを持ち、子育てをしている方がいるのだな」と!!。

 だが、子供は子供である。いくら親が信念を持って、躾けていても反抗したり、言葉遣いが悪かったりする。私は少し意地悪く、それに対する親の対応を訊いた。「いたずらっ気で、子供は言葉遣いが悪いときがあります。もちろん反抗するときもあります。そんなときは夫婦でよく話し合い、なぜいけないかを子供と話し合います。そうすれば必ず子供は親の言う事を理解します。そして親を尊敬するようにもなります」と丁寧に答えてくれた。私は彼女と話していると、その誠実な態度、信念に基づく家庭教育方針に頭の下がる思いがした。これは学校での彼女の授業態度などからも一端が伺えるものではあった。

 彼女のクラスで、他の児童生徒の邪魔をしたり、いじめたりする者がいた場合には、「あなたのお子さんは私のクラスルールに反した行為をしますのでお家で直して下さい」との手紙を父母に書く。個人の生活に立ち入るような「親の育て方が悪い」などとは決して言わない。それはアメリカ人らしいやり方でもある。デーナさんはこれまで多くの児童生徒を教えてきた。その間には癪にさわることもあったに違いない。「もの事の善し悪しを習うべき年齢のときに、父母がそれをやらないままに育った子もいる。テレビの観たい放題もその一例だがーー。こうした親に育てられた子供が不幸で、かわいそうだ」とも言った。

 小学校二年生のキムの国語の読解レベルはクラスで中ぐらいだ。いつも兄さんのクリストファーより出来ないので本人も気にしている。デーナさんはキムについて「もっと学力をつけることも大事で、私はキムに勉強も教えなければならない。だが、それよりもまず最初にやらなければならないのは、兄さんよりもできないというコンプレックスを取り除いてやることが大切だ。成績の悪い児童生徒のためのサマースクールもあるが、私は彼女のプレッシャーを取り去り、リラックスさせてやることに重点を置いている。そして徐々に学力をつけていく。親があせると子供にも悪い影響を与えかねないから」と強調していた。兄弟や姉妹の学力の比較がややもすると行われやすい。私たちも「兄さんはできるのに…」という言葉をつい言ったりする。比較された子供の心がいかに傷つくかも考えずに。

 金曜日の夜は夫婦で出かける行事もある。そんなときはベビーシッターにお願いする。用事がないときは家族で映画やレストランなどに出かけるという。日曜日は教会に行く。そのあとは水泳に出かけたり、ドライブを楽しむ。沖縄の自然がとても気に入っており、土、日、月と連休が続くときはよく小旅行をする。これまで伊平屋、宮古、久米島、西表などの離島を家族で回った。

 日本人のくせの一つかも知れないが、よく外国や外国人から自分たちはどう見られているのかを問う。そう思いながらも、つい私は彼女に沖縄の学生などについて聞いてしまった。彼女は前島小学校なども訪問した経験があり、日本の教育文化についてもよく私に質問してきた。アメリカでは児童生徒の服装は自由で、なかにはルーズな服装をして学校にくる者もいる。「アメリカの教師である私さえもイヤなときがある」という。「いくら服装が自由だからと言っても、それにはおのずと限度があるはずだ」と彼女はなかなか厳しい。そして日本の制服については 「とてもきちんとしていていいと思う。きれいです」と言う。

 昨年彼女の家に本土の高校生二人がホームステイした。その二人が夜遅くまで勉強しているのにはびっくりしたようだ。「日本の親たちは子供を塾に通わせ、学力をつけさせるのに一生懸命だということはあなたから聞いていたが、あれほどとは思わなかった。日本の社会では学力がいかに大事かということを、二人の高校生をみて実感した。冬休みの旅行中に夜遅くまで勉強をするんですから。」

 デーナさんは、あきれた表情だった。私はデーナさんと別れてからも、車の中で、「旅行中にも勉強するんですからーー」というデーナさんの言葉が耳にこびりつき、考えさせられた。

 

「ほめる」教育

 

 ある日、校長は職員会議で一枚のプリントを配った。それには「褒め方百十条」とあり、いろいろなことが箇条書きされている。校長は五十人の教師に、そのプリントが配られるのを見届けてから、「改めてみなさんに褒め方について講議するというわけではないですが。。。」と前置きし、次のように話した。「私はみなさんが生徒を教育するのに叱るのではなく、褒めて教育していらっしやることを充分存じていますが、これは最近ある雑誌から切り抜いたものです。ステイツ(アメリカ合衆国)のある学校の校長が教育雑誌に寄稿したもので参考になればと思いましたので」。

アメリカンスクールでは朝の職員会は頻繁に行われない。1カ月に2回くらいのものだ。毎日、職員向けの伝言書(2−3ページ)があるから、何がどうなっているか職員会議を持たなくても分かるしくみになっている。職員会のあるときは、校長は「朝早く集まっていただきありがとうございました」と言って始めるのが普通だ。最初のあいさつがそういう具合だから、校長はミーティングが終わるまでの間に、「みなさんはとても立派な教育者です。私が今まで経験した中で一番です」ということを必ずつけ加える。褒められる教育を受けてない私は時々そのセリフをこそばゆく思う。ミーティングのときは大抵ハワイ二世の隣に座る。五十代後半の女性だ。校長のそのセリフが出ると「また出たわよ」と言う。彼女も日本の血をひいているから同じくこそばゆいのである。

「わあ、すごいたくさんですね」と110条をみて私はその同僚に少し大さな声で言った。「これはみんな先生方のほとんどが使っている言葉です」と彼女は言った。英語の読解力が私とは比較にならないほど優れているから、数秒でどういうことが書かれているか分かるのである。

 110条には「あなたはすごい!」「よくできました」「いつものとおりすごいわね」「先生はあなたを誇りに思います」と箇条書きされたものが載っている。よく読んでみると同僚が言うように日頃私も生徒に言っていることだ。110も並べられてみると、改めて私はアメリカの教育の奥の深さを感じた。

 1978年のある日、私は国語の指導主事(アメリカ女性)を学校に招いて、私のクラスを受け持ってもらった。国語の指導主事なら教え方がうまいだろうと思ったからだ。午前中の3クラスを彼女は教えてくれた。その頃、私は十年間中学を教えたあと、小学校にきたばかりだった。中学も初めは大変だったが、小学校も劣らず「大変だなァ」と思っている頃だった。小学生をどう教えたらいいかを勉強するために彼女を呼んだ。 児童生徒は普通、代理の先生に村しては行儀をよくしないところがある。教室に入ってくる時からよくいたずらをするマイクが、その日も女の子をいじめながら入ってきた。(註‥日本文化などのスペシャル科目の勉強には児童生徒はホームルームを離れ、その教科の教室に行く)。私なら、マイクに 「また、あなたはメアリーを泣かしたの? 教室に入る前にちゃんと彼女に謝りなさい」と行って廊下に連れ出すところである。

 だが、その女性指導主事は「トムはとても静かに入ってきました。先生はそれが大好きです」と言った。メアリーが泣きやみ、マイクが頭をかきながら静かに座った。そのほか、諸々の声が止まった。授業がスムーズに運ばれた。生徒の日の色が違う、「光っている」私はそう思った。活気がみなぎっている割には騒々しくない。

 先生が質問をした。マイクも手を挙げた。先生はマイクに指名した。答えは間違っている。先生の顔には笑みさえ浮かんでいる。「その答えはあたっていないけれど、マイク、あなたはよくトライしました。この次はきっと正解をしますよ。ありがとう」 マイクがまた頭をかきながら、先生に「ありがとう」と言った。笑顔だ。幸わせそうな顔であった。

私の心を何かが流れて行った。「これだ!」と私は自分に言い聞かせた。感動と耽ずかしさの中で、その日、私は大事なことを彼女と生徒から学んだ。そのことが私は今も忘れられずにいる。

否定的なことは言わないで、肯定的にことを把え、生徒に接しょう、というのがアメリカンスクールでの教授法だ。教師が授業をしているとき、よそ見をしたり、隣の人の邪魔をしたり、おしゃべりをしている生徒がいても、名指しで「そうしてはいけません」とは言わない。熱心に開いている生徒の名前を挙げて、それを褒める。そうすると、よそ見をしたりしている生徒はちゃんと襟を正す。低学年生の場合はなおさら教師は叱ることはしないで、褒めることに努めている。

 教室、学校で生徒を褒めることを学んだ私は学校以外の社会でも人を褒めるようになった。親兄弟、親戚には「子供は褒めて」とよく言ってきた。親しい友人には「自分の子供を子供の前でも、他人の前でも同じように褒めるべきです」と話している。はじめ、変な顔をしていた友人たちの中にも、その効用を知り、自分の子を褒めるようになった人もいる。私が褒めると、時折、方言で「アンダグチ」と言われることもある。そういう人たちでも褒められてまんざらでもない様子だ。

 日本人は自分の家族のことを人前であまり褒めない。それが美徳だと考えられている。そのため他人が、その家族を褒めるのを聞いていていい気持のしない人がいる。素直に人のいいところを認めることのできる人は、それを聞いていい気持になるものだけど。。。

人前で子供を褒めることのできる親を持つ子供はいつも幸せにみえる。家庭で親に褒められ、勇気づけられているから。。。「ほめられて悪い気はしない」という言葉があるのにどうして日本では素直に褒めようとしないのか。私にはとても不思議である。

尚、110箇条を抜粋したページはこちらで見られます。

 

飛び級(スキップ)制度

 

 「末吉先生、あなたがいつも言っていたようにアンバーは来年三年生に進級することになりました。二年をスキップして」 アンバーの担任の教師が学年度の終わり頃、私に言った。

アンバーはその年は一年生だった。普通の生徒よりずば抜けて優秀である。体育                                                                                                                                                                                                                                                                                    などを除く学科で、いつもすぐれていた。私の日本文化では三年生が習うことを一年生の彼女にさせていた。彼女はそれができた。

 日本文化は一年から三年まで学校が決めたテキストはないが、私は独自で工夫し、手作りのブックを毎年使っている。その他、副読本として日本の童話集を採用している。その童話はほとんどの一年生が読めない。彼女は四種類ある本を全部読んだ。私が生徒に三年の歳月をかけて副読させている本である。

 アンバーは読書能力が群を抜いているから、すべての教科がO+の成績である。Oというのはとびぬけて優秀という意味。彼女はそれにプラスが付いているのであるから、いかに優秀かというのがわかる。

 アメリカンスクールでは留年制度もあれば、学年を飛ばして進級する制度もある。できる児童生徒はその能力によって上の学年に進む。十年ほど前までは、クラスにひとりはこのスキップ制度の恩恵を受ける児童生徒がいたが、最近はあまりいない。私たちキンザー小学校では二年前に一人、今年一人という数である。このスキップ制度は中学、高校でも採用されており、優秀な生徒はどんどん進級できる。そのため一九歳や二十歳で大学を卒業するものがでてくる。

 私は日本人の悪いくせで、アンバーのお母さんに、アンバーが家で特別な勉強をしているのかと電話で聞いてみた。「いいえ、特別なことは何もしていません。彼女はよく本を読む子です。友だちとも仲良く遊ぶ普通の子です。妹や弟の世話もよくします。褒めていただいてありがとうございます」との返事が返ってきた。お母さんと話していて、アンバーのクラスでの授業能態度が頷けた。彼女は学業成績が「飛び抜けて」良いだけでなく、クラスメートとの協調性にも長けている。アメリカンスクールの「飛び級制度」は児童生徒の「他人との協調性」も審査の対象になる。

  

僕、落第しちゃった

一部抜粋

「はじめまして、私の名前はコーリーです。私は九歳です。私は三年生です。どうぞよろしくお願いします」言い終わるのももどかしそうに頭をチョコンと下げた。クラスが笑った。頭を下げる仕草がおかしかったからだろう。拍手をした。初めより大きな拍手だ。

 コーリーは席に戻り、また、手を挙げた。「ほんとうは僕、四年生なんだけど、三年生に落ちたんだよ」ニコニコ顔である。

 「あ、だから君は九歳なんだね」ジエイスンが言った。積極的なアメリカの子供たちの中でもジエイスンは際立っている。クラスが笑った。今度の笑いは止むのが遅い気がした。

私はコーリーの顔を見た。ホッとした。相変わらずニコニコしている。「僕、去年も三年生だったの。先生」 コーリーは、私が彼の顔を見ていたのを意識していたように素早く言った。「コーリー、来年は四年生のことを日本語で何というか、先生が教えるからね」

私は少し、しどろもどろだった。

 「だから君は九歳なんだね」と言ったジエイスンは、コーリーがそれによって傷つくとは思っていない。物をはっきり言うアメリカの子供でも、人が傷つくことは言ってはならないことを知っている。誰かが、人を傷つけるようなことを言うと、大げさに言えば一大事である。人権を重んじる国だから。そういう場合は、クラスがどっと笑うようなことはない。沈んでしまうのである。ジエイスンの言ったことにコーリーが傷つかないことを子供たちも知っている。だから笑ったのである。

 アメリカンスクールの中にも落第は恥ずかしいことと思っている子もいる。特に女生徒に多い。恥ずかしいことをはっきり言うコーリーの勇気を賞賛して子供たちは笑っているのである。クラスが笑っても、コーリーが傷つかないのがアメリカ文化だ。

 「先生、日本の学校でも落第というのがあるの?」私は「きた」、と思った。よく質問をするジョンだ。「今はないけど、先生が小学校の頃はあったような気がするよ」続いてジョンは「先生、落第した?」とストレートにきいた。これがアメリカの子供である。クラスの一人がすかさず、「バカだねえ、先生が落ちるわけないでしょう」と言った。こういう生徒は多分東洋系である。ジョンの質問はもっと続いた。「先生、昔、落ちたら耽ずかしかった?」ときいた。アメリカの子供でも落第をやっぱり耽ずかしいと思っているんだ。あとで、カウンセラーにきいてみようと自分に言いながら、「恥ずかしかったでしょうね。そして昔、どこかの学校に転校することになったとき、コーリーのようにはっきり言わなかったと思う。先生にはきっとその勇気がなかった。耽ずかしくて隠したと思う。みんなが白い目で見るから」と私は言った。

 「日本の学絞でなくてよかった」ジョンの言ったこのセリフはアメリカの児童生徒から私がよく聞く言葉である。受験勉強など厳しいことを知るたびに彼らがよく使う言葉である。                

 その日の放課後、私はカウンセラーのオフィスに行った。「アメリカンスクールの留年制度が三年生までというのは社会的影響を考えてのことでしょうか」「はい、そうです。

いろんな社会的背景を考えると、それ以上の学年では好ましくないからです」とカウンセラーは説明した。

 アメリカンスクールの留年制度は、まず担任教師が、クラスに留年させた方がいいと思う生徒がいたら、それをカウンセラーに提出する。学校の終わる一カ月前の五月初めに行われる。全教科の遅れが対象になるが、特に国語(英語)の読解力が問題になる。委託されたカウンセラーは父母を学校に呼ぶ。アメリカンスクールでは、父母が学校に来るときは、ほとんど両親揃って来る。子供のために職場を離れる時間は、管理休暇である。日本の職専免に相当する。父母と担任教師がカウンセラーを交じえて、留年について一緒に話し合う。そのとき、担任教師は成績などについて詳しく説明する。カウンセラーは 「留年をさせた方がお子さんのためですが、決定権は親にあります」とアドバイスする。親は先生とカウンセラーのアドバイスを家に持って帰り、熟慮する。そして父母は 「子供のために留年」という結論を出す。そんなとき、親は「人が何というだろうか」ということは考えない。子供にとって良い結果に結びつくか、どうかである。担任教師とカウンセラーに留年をアドバイスされ、親に正しく結論を出してもらった子供は安心してもう一年間、同じ教科を勉強する。それが自分の将来のためになることを十分理解している。クラスメートたちも年の違う同級生を気にしない。そこがまたアメリカらしい。

※沖縄にあるアメリカンスクールでは児童生徒の転出入が頻繁だ。海外にあるアメリカンスクールでも同様である。軍人の親の転勤によって子供たちも転校する。新しい児童生徒が入ってくる日、キンザー小学校では校舎の入口に生徒の名前と教室番号の書かれたボードが立てられる。「ウェルカム ジョン・テーラー 二〇五」という風に。聴員向けに事務所から発行される伝言書にも載る。教師は毎朝、生徒の登校前にその伝言書を読み、学校の動きについて知る。

 

個人指導

 

 教師が生徒を教えるとき、一斉指導方式でやれば楽である。だが、生徒は損だ。一斉授業では、学ぶべきものを取得できない者がクラスの半分以下いるだろう。授業についていけない児童生徒が出てくる原因の一つにもなっているという。

 アメリカンスクールの教育の理念は「個人の能力」を育てることにある。そのために授業は「個人指導」が重んじられている。一見、一斉授業にみえる場合でも結局は個人が対象だ。

 例えば、教師が教科書に沿って授業を進める時、その日のレッスンである第十章「自由への戦い」(アメリカの歴史)、を前日からのレッスンと関連づけながら教師は約十分間講義する。そしてその章の勉強方法を教える。その後、児童生徒は自主的な学習に入る。自主的学習というのはこの場合、本を何回も読んで、その本に付いている問題に答えることである。各章ごとに付いている問題は○、×式だけでなく、必ず一つや二つは「・・・・についてあなたはどう思いますか」、「あなたならどうしますか」などクリエイティブな答えを要求するものになっている。児童生徒は「自分の考えをまとめる」ことを一日のうちに何度も経験する。教科書の中のそういう問題形式を初めて見たとき、私はアメリカ人が「自己主張」に長けているのはそこにも一因があると思った。

 解答した問題を先生に持って行く○、×式の解答が間違っていたら、教師は「ここがこういう風に間違っている」と指摘し、教科書の該当ページを開き、助言指導する。「・・・・についてどう思いますか」の児童生徒の答えに村しては「とてもいい考えだと思います」と肯定的な評価をし、その考えをもっと深めるよう指導する。問題を全部解き終えた児童生徒は、教科書を前へと進んでいく事もできる。多くの場合、教師は「関連教材」か、あるいは全く別の興味のある教材を「スタディ・コーナー」に用意する。問題を解答し、教師の指導を受け終えた生徒はそのコーナーに行き、自分の好さなものを選んで勉強する。関連教材というのは、「自由への戦い」の場合、十九世紀中頃の黒人奴隷解放の最も有名なリーダーは「フレッドリック・ダグラス」であった、と教科書には記されているが、教師はそのほかに黒人解放運動に係わった人がいれば、それを生徒が学習できるようにその資料を「スタディ・コーナー」に揃える。この「スタディ・コーナー」を終えた児童生徒のために、教科とは全く違うコーナーを私は用意している。それはパズルや切紙などのアートをやるコーナーである。能力差によって早く学習を終える児童生徒もいるので、その児童生徒が他の邪魔にならないように、頭の体操をさせる。このコーナーで好きなパズルなどをやるために、一生懸命に問題に取り組む者もおり、私はそれなりの効果があるとみている。

 「スタディ コーナー」に置く資料を準備するのは教師にとっても負担が大きい。教師は「スタディ コーナー」を使って勉強したものをチェックする仕事も出てくる。私のアメリカ人の同僚はよく「ティチャーズジャブ イズ エンドレス」 (教師の仕事に終わりはない)という。全くその通りである。教材研究し、生徒個人の能力差を考えて教えていくのは難儀なものである。だが、講義だけをやり、理解できない児童生徒をそのままにし、また、逆に分かる生徒を退屈させることを思えば、教師として個人指導せざるを得なくなる。

 日本文化の講義は小学校一年生から六年生までが対象である。学年に応じた教材を用意するのは当然…であるが、私は日本語を覚えさせるために独自の教具を作っている。例えば、「ベイビー」に相当する日本語を覚えさせるためには、パズル形式で「赤ちゃん」と組み合わせができるように工夫している。日本・沖縄地図はすごろくやパズル形式で教材を作っている。これらの教材は教室の一角に設置した「スタディ・コーナー」に置き、授業を理解した児童生徒が自分で勉強できるようにしている。学年によって用意する教材は違うが、「スタディ・コーナー」には常時、「折り紙の折り方」「日本語の単語の覚え方」「日本・沖縄の地理」「沖縄の年中行事」「日本童話集」などが置いてある。関連教材はその都度、取り換える。例えば五、六年生には「日本歴史」のあらましも教える。「織田信長」を教えるときには関連の「豊臣秀吉」、「徳川家康」を用意する、という風に。

 

星条旗が好き

一部抜粋 

「先生! 日本人は日本の旗が好きですか」ブライアンが訊いた。「きたな!」と私は思った。ブライアンは四年生の男の子である。

 毎年、日本の学校の卒業シーズンになると日本の国旗についてよく質問を受ける。四、五、六年生は全部で三百人余りいるが、質問するのは四人から五人ぐらいだ。

 その頃になると、アメリカ人向けの新聞『スターズ&ストライプス』にも、日本の学校の卒業式典では、「日の丸」を掲揚することに賛否両論があるとの記事が載る。 また家で親が話しているのを聞いて、日の丸について沖縄の事情を知っている生徒もいる。「日本の旗はなぜ日の丸ですか」「日本の旗は誰が作ったんですか」「何を意味していますか」「日本の生徒は日本の旗が好きですか」日本の学校の教室には旗がありますか」等々である。

 答えられない質問もある。そんなときは言葉を濁さずに「先生は分かりません」と素直に応えることにしている。そして、「さて、先生は皆さんが自分の国の旗をどう思っているか知りたいなぁ。みなさんの考えを書いてみませんか」と訊く。待っていました」と言わんばかりに生徒たちの手が挙がる。

 私は作文用紙を配った。二十分も経たないのに提出する子もいる。「ゆっくり考えて」あるいは「時間をもっとかけて」と言っても早く出す子が多い。国旗は、彼らにとって日頃の関心事だから、作文するのに時間がかからないのかも知れない。

一つのクラスだけでは生徒の考えがわからないと思い、ブライアンのクラスのほかに、一年生を除く各学年から一クラスずつピックアップし、「星条族についてどう思うか」というテーマで作文を書かせた。

二年生の女生徒一

 「わたしはアメリカのはたがすきです。にっぼんのはたもすきです。なんでかといいますと、わたしのおかあさんはにっぼんからきました。おとうさんはアメリカからきましたので、アメリカのともだちもいるし、にっぼんのともだちもいます」 (註‥彼女の原文である。翻訳の手は入れていない。彼女はパイリンガルである)

二年生の女生徒二

「私は私の国の旗を誇りにしています。何故なら、それは、みんなを想い出させるからです」

四年生の女生徒一

 「私はアメリカの旗を誇りに思います。私はそれが自由を意味することを知っています。国歌を歌うとき、私は旗が必ずいっしょに揚げられることを知っています。私は旗をいつまでもいつまでも、愛し続けます」

四年生の男生徒

 「僕はアメリカの旗が好きです。何故なら、僕の好きな色と形だからです。もう一つは、世界どこに行ってもアメリカの旗を見ることができるからです」

四年生の女生徒二

 「私はアメリカの旗は好きではありません。色が単純だからです。旗は地が全部ブルーだといいと思います。そして絵はワシが旗を持っていて、その旗は赤、白、ブルーのストライプになっているといいと思う」

五年生の男生徒

 「アメリカの旗はベッツィ・ロース上いう年老いた女の人が作りました。初めは今日のようにたくさんの星はなかった。十三の独立州を意味する十三の星だけでした。今は五十の州を意味する五十の星と当初の十三の独立州を意味する十三のストライプがあります。昔、戦争の時に、旗が倒れかけたことがあります。五人の兵士がそれを誇り高く揚げた。私はそれを映画で見ました。あのとき、そのまま倒していたら、アメリカには旗がなかったと思います。そしたらみんなが誇りに思うものがなくて、とても淋しかったと思います。私はあの五人の兵士たちに感謝しています」

 僅かな否定的な声も、それは色とデザインだけに拘るもので、旗の持つ意味を否定しているわけではない。ワシが銃をもっている絵があればいい、という男生徒はアメリカの強さを言いたいんだと思う。この頃、アメリカが少し弱くなったということを世界が認めはじめているのを、子どもたちにも分かるのかも知れない。だからアメリカの国鳥であり、鳥の中でも極めて強い部類のワシの絵に憧れるのだろう。

百三十人近くの生徒の作文を読んで解ることは、アメリカの子どもたちが自分の国の旗を誇りに思い、尊敬しているということである。「アメリカ本国にいる子どもたちも旗が大好きなのかしら」と私はアメリカ人の同僚に訊いた。「ここにいる子どもたちは親が軍人だから、旗に村する尊敬の度合いがアメリカ本国にいる子どもたちより強いのよ」と言い、「子どもたちの観ているテレビはアメリカ本国からのものであるけど、コマーシャルがなく、その間はアメリカの軍人の歴史とか、軍隊がいかに大事かがいつも放送されるから、子どもたちは親から教えられるほかに、テレビからもアメリカの旗のもつ軍事的な意味を理解させられるのだと思う。あ、それからよく聞くと思うけど、旗が地に触れたら焼くというのはもうしなくなったと思うよ」と彼女は説明した。

 私は児童生徒の考えを知るために授業によくディスカッションを採り入れる。日本の児童生徒よりも自分の意見・主張を生々と発表する子が多い。生徒たちもディスカッションの接業が好きで、教室は活気づく。生徒たちの中には先生に自分を認めてもらいたくて誰よりも早く手を挙げようと努力するのもいる。

 また、国旗の問題のように児童生徒に作文を書かせるときもある。私が、生徒のときは作文の時間は嫌いだった。それは、杖数なども決められ、何か強制されているイメージが強かったせいもある。

 私がアメリカンスクールで作文を書かせるときは、そんな制限は一切つけないことにしている。

  

良いグループに導く

 

  「ただ今のは、悪い奴がお目あての彼女を追って丘の上まで辿り着き、やっと彼女をつかまえてキッスしようとしたとき、彼女にかわされて丘から谷へ落ちて行く場面でした。

 皆さんにはそれが分かったと思います。次はいい男が彼女に追い着き、キッスする場面です。その違いを聴いて下さい」

 久場崎ハイスクールのバンドが一曲目の演奏をしたあと、バンドデイレクターが曲の内容について紹介した。米軍向け放送FENのTVショウ番組のソングで、アメリカの子供たちには馴染みの曲である。

 「キッシング」という言葉がデイレクターの口から出たとき、男生徒は「ウウ」と言い、女の子は「ウエ」と下を向く子が多かった。どうしてアメリカの子供たちが・・・」と私は思ったが、「親子間の日常のキッスとは違って、男女間のそれには、彼らでも耽じらいがあるのだ、小学校の低学年生では日米共通なんだ」と私は解釈した。

 長年アメリカンスクールに勤務していると、私たちが予想もしない場面に出合うことがある。これもその一例だ。                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 久場崎高校の音楽クラブは、沖絶にあるアメリカンスクールを廻って演奏活動を展開している。毎年四月から五月にかけて各小学校を廻ったあと、久場崎高校の講堂で一般向けの演奏をするのが慣例になっている。

 キンザー小学枚には毎年、五月中旬頃やってくる。会場となる体育館が小さいので、七百六十人の生徒は入らない。上級生と下級生の二つに分けて催し物を見聞する。

 下級生(幼稚園から三年生まで)向けの演奏は、子どもたちによく知られているTVソングから入った。

 一曲目が終わり、「キッシング」という言葉の入った解説に、子供たちは「ウエー」と言い「ウウー」と言った。笑うのもいたので騒がしかった。

 バンドデイレクターは

「おかしいと思ったら笑ったりして、皆さんはとても素直でマナーのいい生徒です」と褒め、児童生徒を次の曲へ誘導する。

「ピカピカ星よ…」など、次々と演奏される曲は全て子供たちがよく知っているメロディーである。手拍子をとり、音楽の中に子供たちも入っていく。ステージがないから演奏者と同じフロアーだ。そのことが親近感を持たせ、演奏と一体になっている。

  前列に座っている幼稚園児が騒いだりすると、曲が終わり、次の曲に移るとき、すかさずバンドデイレクターの声が入る。

 「私たちは沖縄にあるアメリカンスクールをみんな廻ってきましたが、みなさんは一番行儀のいい観客です。」とディレクターは言う。なぜ児童生徒が騒いだり、席を離れてもしからずに「マナーがいい」というのだろうか。日本の場合は「そんなことをしてはいけません。」「騒いではいけません」と叱るのが普通である。

 このバンドディレクターが褒めるのは、会場の中でも静かに演奏を聴いているグループを見ながら言うのである。そうすると、これまで騒いでいたグループが急に静かになる。児童生徒を褒めて、その褒められたグループのようにしていく方法はとても興味を引くものである。

テーリー・ライカード校長は、演奏が終ったあと、お礼の言葉を述べた。そして「演奏してくれた生徒の中には、このキンザー小学校出身の生徒もいます。みなさんも音楽の時間に一生懸命勉強すれば立派な演奏ができます」と言った。

 このような校長の激励の言葉を私は初めて開いた。「うん、校長も長く日本にいるので、日本のいいところを学んでいるなあ」

これまで何人かの校長の下で教員生活を過してきたが、テリー・ライカード校長のように日本式に出身者を持ち出して、在校生を激励する校長はいなかった。

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