三沢国際クラブ 

ごあいさつ

三沢国際クラブでは、当初2003年8月に予定されていたミス・ビードル号記念再飛行の成功を願い、 微力ながらこれまで、アメリカンデーやクリスマス親子バスツアーなどを利用して、三沢市民の方々 から寄付金を募って参りました。再現飛行はこれまで、世界情勢や、着陸事故等により中止や延期を重ねて まいりましたが、三沢市民の熱い願いが叶い、このほどミスビードル(復元機)が80年目にして、ついに三沢の空を舞うことが出来ました。この実現はミスビードル実行委員会をはじめ、関係各位の熱意とご努力の賜物と市民の皆様と共に喜びを分かち合いたいと思います。

本ページでは、1981年三沢市教育委員会発行、三沢市太平洋無着陸横断飛行記念誌編さん委員会著作、元三沢市立古間木小学校校長伊藤功一先生執筆。太平洋無着陸横断飛行の記録、「高く、ゆっくりと、真っすぐに翔べ」の一部を紹介したり、ウエナッチのページ やミスビードルに関するページなどをリンクしております。どうぞごゆっくりお過ごしください。

以下はこれまでの情報や新聞記事を新しい順にまとめてあります。

 

ミスビードル号最新ニュース

80年ぶり三沢の空へ

市民の願いついにかなう

 

2011年8月19日東奥日報朝刊

 

残念!! 19日のフライトはおあずけ

平成22年9月11日発行東奥日報朝刊より

平成22年7月24日東奥日報

平成22年6月19日東奥日報

平成22年6月11日東奥日報

 


平成22年6月22日

ミスビードル号がいよいよふるさとへ帰ります。

ミスビードル号復元機が79年ぶりに再び三沢の空を飛ぶことになりそうです。これまで何度も飛行計画を立てながら延び延びになっていましたが、ウエナッチ市、三沢市、米軍三沢基地の 関係各位の努力が実り、三沢基地航空祭(平成22年9月19日)に合わせて、三沢市民の夢が実現に向けて又一歩近づきました。皆様の応援よろしくお願いします。

 

 

緊急速報:下記の予定が3度目の延期になりました。

2005年三沢淋代ー米国ウェナッチ市だけでも

東奥日報2004年11月26日に掲載されたミスビードル号再飛行延期の記事

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

↓ここからは当初発表された飛行計画↓

現地航空機実験協会「スピリット・オブ・ウエナッチ委員会・SOW」が発表。

ミス・ビードル号機体完成と飛行計画(予定)

ミス・ビードル号再現飛行実行委員会(スピリット・オブ・ウエナッチ)より、下記の情報がファックスされて参りましたのでお知らせします。

機体完成予定:    

2003年2月中ー下旬

初飛行、習熟テスト飛行、荷重テスト飛行、最終テスト飛行、パイロット訓練飛行、機体検査・認可、パイロット最終選考、飛行計画認可

飛行計画予定:  

2003年7月25日 米国ワシントン州ウエナッチ出発

第4回 ミス・ビードル号

1931年(昭和6年)10月4日、三沢村の前村長小比類巻要人の家は、

まだ夜の明けぬ中から、異様な緊張感に包まれていた。 

長男啓一の嫁小比類巻チヨは、午前二時に起床して、台所に立っていた。
 午前二時三十分、サンフラソシスコからの気象通報を受けて、クライド・パングポーンは床の中でそれを読んでいた。
 昨夜(三日)午後八時の中央気象台の気象通報は「千島方面南微風」であったし、同三日、午後四時、北海道落石無線局が傍受したセントポール発も、
 「アリューシャン方面の雲高三〇〇〇メートル視界広く半晴で無風」
を伝えていた。
 パングボーンは、二度、三度と受信したばかりの気象通報を読み返しながら、まだ暗い戸外の気配をうかがっていた。
 ヒュー・ハーンドンも午前三時に起床して、既に起きていた家人や、報道関係者たちと雑談していた。静かな秋の夜明けであったが、その中で人々は息を殺してなにかを待っている風であった。
 パングボーンはそんな様子には無関係に、午前四時を過ぎても起きようとしなかった。
 しかし、四時を少し過ぎると、パングボーンに飛行の決行を促すように、周囲はしだいにざわつきはじめた。午前四時三十分、意を決したように床を離れると、低い声で言った。 「よし、行こう、ともかく飛行場まで行ってみょう。」決行がまたまた延期かと、パングボーンの決定の出るのを待っていた報道関係者や家人たちは、期せずして小さな歓声をあげた。
チヨの作ったハムエッグとトーストの軽い朝食をすますと、午前四時五十分、報道関係者や三沢村の人々と一団となって淋代に向かった。
 その朝、空はやや曇っていたが、ほとんど無風、東の空が少し紅く染まっていた。
二〇分ほどで淋代海岸につくと、既に集まっていた人たちが走り寄ってきて、口々に言った。
 「風の状態はいいようですよ。」
 「今日こそは飛ぶんでしょうな。」
 ここ数日間の、無口で不愛想な態度から一変して、パングボーンは機体の点検、滑走路の点検などをてきばきと済まし、ハーンドンにも矢継ぎ早やに指示を与えていた。決意の程がハングボーンの表情に表われていた。
 やがて操縦席に着いたパングボーンは、村人の助けを借りて、エンジンを始動させるとしだいに回転数をあげていき、エンジンをフル回転させてその音にしばらく耳を傾けていたが、納得したようにまた回転数を落としていった。
 午前七時近く、雲が空全体を薄く覆ってはいたが、朝日は既に昇って、東の空は美しく彩られていた。陸から海へと、西風がかすかに吹いて、出発のコンディションは絶好であった。
 エンジンの試運転を終えて機上から降りたパングボーンは、もう一度、車に乗って材木を敷きつめた滑走路を入念に点検した。
 

 ミス・ビードル号離陸 

  午前六時四十二分、再びエンジン始動、徐々に回転数をあげ、回転数が一七〇〇回転に達すると、繋留用の網がぴんと張られ、パングボーンは制動機で機体を保持しながら、機外で見送りの人たちと別れを惜しんでいたハーンドンに座席に着くよう指示した。 そして、ハーンドンが隣にすわると、直ちに滑走開始の合図を送った。細谷部落の中村岩蔵が手斧を振りあげて繋留網をカいっばい断ち切った。

  真紅のミス・ビードルの機体が、細谷部落の南端から淋代部落方向に向かってゆるやかに傾斜している滑走路上を、それこそ解き放たれた鳳のように疾走をはじめた。午前七時一分であった。
 「パングボーンはしっかり操縦桿を握り、ハーンドンは片手でダンプバルブを、片手でガスレバーを十分に開いて、機体の浮上を祈る思いで待った。速度は五〇マイル、六〇マイル、七〇マイルと増加したが離陸せず、パングボーンは焦った。時速九〇マイルに達したとき、飛行磯はやっと、全くやっと地上を離れた。離陸だ。」

 後日二人は雑誌「飛行」(昭和六年十二月号)に離陸の様子をこのように書いている。
 また、朝日新開に寄せた手記の中では、次のように詳述している。
 「離陸の際は非常に心配した。というのは滑走路の先方に雨のため凹地があったからだ。過重の飛行機と普通の飛行機との離陸には非常な相違があって、もし飛行機がバウンドすると、折よく離陸しかけていた飛行機の尾翼がバウンドを食ってまた低くなり、それがため再び尾翼が持ち上がり離陸し得る姿勢となるまでには、相当の滑走距離を必要とし、遂には離陸に失敗することがしばしばあるからだ。
 この離陸の位置をはかるため、淋代海岸の滑走路には五ガロンのガソリンを、ひとつは出発点から一マイル先に、もうひとつは滑走路の最後の地点にまいて、出発に先立ち、火を点じ、滑走中の目標とした。我々は離陸するまでにどれだけの距離を走ったかは知らないが、確かにはじめの火を通り越した後であったことだけは覚えている。多分一マイル八分の一ぐらいを走ったろう、土から離れると重量が勝ち過ぎているにも拘らず、飛行機はうまい工合に飛んでいった。」
 また、この離陸を見守っていた朝日新開の記者は次のように述べている。
 「滑走距離一八〇〇メートル、これに要したタイム六〇秒、専門家の間に離陸困難だと叫ばれた機体を、このように容易に浮揚させた操縦技術は驚嘆に価するものがある。
 滑走中の第一バウンドは三〇〇メートル、それより数回のバウンドがあって、千五○○メートルの箇所にて大バウンドを経て、遂に一八〇〇メートルで離陸した。」
 離陸すると海岸伝い約五キロ飛行し、三川目海岸あたりから陸地に向けて大きく旋回し三沢村役場上空を経て、再び機首を海上に向け、高度二〇〇メートルで淋代海岸に手を振る人々に別れをつげ、そのまま太平洋上に出た。しだいに遠ざかっていく真紅の機影が見送る人々の視界を去ったのは午前七時十三分であった。 

パングボーン、ハーンドンの計画

 一九二七年、無名の飛行家チャールズ・リンドパークによって、
ニューヨーク〜パリ間の無着陸飛行が成功すると、世界の飛行家の眼は一転して太平洋に向けられた。
 一九二九年八月、ドイツのツェッペリン伯飛行船は、世界一周の第三航程として、霞ケ浦〜ロスアンジェルス間九五〇〇キロを七九時間二十二分で飛行に成功した記録はあったが、飛行機による太平洋無着陸横断にはまだだれも成功していなかったからである。
 そのため、太平洋無着陸横断への挑戦は一九三〇年から三十一年にかけて集中的に行われたのである。
 しかし、同時に、一九二九年ツェッペリンによる世界i一周早まわりに二〇日と四時間という新記録が達成されると、それに刺激されて、さらにより早く世界一周記録を樹立しようとする者が続出して、当時の世界の関心は、太平洋無着陸横断の初飛行と、世界一周早まわりの記録更新にだれが成功するかに集まっていたのである。

 世界一周の最初の記録は一八八九年、ネリー・ブリーによって船と汽車を乗り継いで行った七二日間と二二時間三六分であった。その後、ジョン・ヘンリー・メアは一九一三年、ネリーの記録を半分の二五日と二一時間に短縮した。
 その他、一九二四年には、シアトルを出発したアメリカの陸軍機が、三六日間を要して、その中の二機だけが世界一周に成功していたのである。
 これらの記録を大幅に短縮したツェッべリン号の記録を、さらに一層短縮しょうというのが、当時の飛行家たちの目標であった。
一九三一年における世界早回り飛行の名乗りをあげていたのは

 ○ポスト、デッティ組(アメリカ)
 ○ボードマン、ポラソドー組(アメリカ)
 ○パングボーン、ハーンドン組(アメリカ)
 ○ル・ブリ、ドレー組(フランス)


等であった。
 まずその第一陣としてポスト、ゲッティ組は一九三一年六月二十三日、午前三時五十六分ニューヨークのルーズベルト飛行場を出発した。機体はロッキード・べガ、ウィニィメイ号で、六月二十五日、午前七時三十八分、ベルリンのテンペルホーフ飛行場を発って、同日午後五時四十分、モスクワのフルンゼ飛行場に到着した。
 そして六月二十六日、午前一時、フルンゼ飛行場を出発してウラルを越え、イルクーツク着、その後フェアバンクス、ミネアポリスを経由して七月一日、午後七時四十七分、ルーズベルト飛行場に帰着した。
 飛行総距離一万五四七四マイル(二万四九〇二キロ)を一二着陸、八日一五時間五十一分で飛行し、ツェッペリン号の二〇日三時間五〇分を一一日二時間二五分短縮して、世界一周早まわりの新記録を達成したのである。
 特にこの飛行で注目されることは、ニューヨーク〜モスクワ間を二日と六時問四〇分で飛んだことである。全航程約一万五〇〇〇マイルの三分の一の五〇〇〇マイルを二日と六時間四〇分という驚異的な記録で飛行したのであった。
 途中、ベルリンで、ポストとゲッティは自信のほどを次のように述べている。
 「この調子でいけば、一昨年ツェッペリンが作った二二日世界一周の記録を破れることは十分確信できる。
問題は何日短縮できるかにある。大西洋上はハーパークレースを発つころはよかったが、夕方から雨になり、朝まで降り続いたのみならず、ひどい暴風雨に見舞われ、大いに骨が折れた。雨と閻とで展望が全く利かぬので、高度をうんと下げ、白い波頭をみて、機の安定を知るようなことすらあり、時々水面上、五〇フィートぐらいの低空飛行をやった。
 方角にいたっては、ゲッティの計測が唯一の頼みで、全くの盲目飛行をやった。暴風雨がきた時などは疾風帯を避けるため、一万二〇〇〇フィートも昇ったが、エアポケットが随所にあって、全く木の葉のように
弄された。」
 この飛行では、操縦の大部分をポストが担当し、ゲッティは前年のプロムリーと組んで挑戦した太平洋無着陸横断の時と同様、計測を主として担当したが、熟練した技能は、世界早回り飛行に大きく寄与したと考えられる。
 続く第二陣として、ボードマン、ボランドー組は、同年七月二十八日、午前五時、フロイドベネット飛行場を出発、一挙にトルコのイスタンプールまでの八〇六五キロを飛行して、世界直線距離飛行記録を達成すると、それ以後の飛行を中止した。
 第三陣は、パングボーンとハーンドンによる「べランカ・スカイロケット機」であった。第三陣といっても、実は第二陣のボードマン機に僅か数分遅れてルーズベルト飛行場を離陸したのであった。
本来なら、パングボーン、ハーンドン組が第二陣として出発するはずだったが、二十八日未明離陸に失敗し滑走路の先端にある土塊に突込む寸前、積載した八五〇ガロンのガソリンの中、六五〇ガロンを緊急排出して危うく危機を逃れた。この事故により、二人は機体を第二滑走路の方に移して機体の再点検を行い、異常のないことを確かめると、イスタンブールに向けて飛び立ったボードマン機にほんの数分遅れて出発したのである。
 二人が計画したコースは、ニューヨークからイングランドが第一航程であった。そしてそこからシベリア経由でカムチャツカ半島に出、アレウト列島に沿ってアラスカを横切りカナダを経由してニューヨークに帰着するというものであった。
 前述のようにパングボーンたちにとって、当面の目標はポスト、ゲッティが樹立した八日と一五時間五一分の世界一周早回り記録を更新することであったが、ポスト、ゲッティが乗ったロッキード・べガはベランカよりも速かったから、それをカバーするためには着陸回数を可能な限り少なくして、地上にいる時間を最少限度にするより方法はなかった。
 参考までにベランカ・スカイロケットとロッキード・ベガとの性能を比較してみよう。
 

ベランカ・スカイロケット


ベランカエアークラフトコーポレーション製作
・翼  長  四八フィート八インチ(一四・八メートル)
・長  さ  二七フィート一〇インチ(八・五メートル)
・高  さ  八フィート一一インチ(二・七メートル)
・翼面積   三〇九平方フィート(二八・七平方メートル)
・自  重  一一七六・七キログラム
・エンジン  プラットアンドホイットニーワスプ四二五馬力
・乗  員  二名 乗客四〜五名
・最高時速  二四〇キロメートル
・全備重量  四〇五〇キログラム
・巡航速度  二〇八キロメートル毎時
・航続距離  一一二〇キロメートル

ロッキード・ベガ
・六人乗り旅客機
・エンジン  ワスプ四二五馬力・二二〇馬力
・全  長  八・三メートル
・高  さ  二・七メートル
・翼  長  一二・五メートル
・巡航速度 四二五馬力の場合、毎時二二〇キロメートル
       二二〇馬力の場合、毎時一六〇キロメートル

・最大速度 四二五馬力・高度一八三〇メートルにおいて、毎時三一二キロメートル
       二二〇馬力の場合、毎時二一八キロメートル
・構  造  モノコック構造で軽量、胴体も流線型で空気抵抗も少なく、主翼もまた太い支柱のない高翼単葉の高速機であった.
 

 以上が両機の比較であるが両機とも、当時の代表的な飛行機であった。その他の優秀機として、フォッカーF7型三発機、エムスコ、ライアンなどがあったが、べランカ・スカイロケットは、先に大西洋無着陸横断をなしとげたリンドバーグも、横断飛行の際の使用機として強く希望していたほどであったが、価格の点であきらめざるを得なかったと言われている。
 世界一周早回り飛行の計画にあたって、パングボーンは何よりもこのベランカが必要であると考えたが、それには財政的な援助者が必要であった。
 そこで彼は、この計画の共同の実行役として、飛行経験豊かな友人たちを選ばずに、若いヒュー・ハーンドンを選んだのである。

ヒュー・ハーンドンについて  

 ヒュー・ハーンドンはニューヨークの裕福な実業家の息子であった。そのうえ、パンクボーンとハーンドンは、かつてゲイトサーカス団の団員としてお互いによく知り合っていたし、ハングボーンがニューヨークのシラキューズで一七九時間の滞空記録に挑戦した際、空中給油の援助をしたのがハーンドンであったからである。
 この計画をパングポーンが打ち明けると、ハーンドンは強い関心を示し、種々計画をめぐらした結果、R・T・W(世界一周飛行会社)を設立して、ハーンドンが社長、バングボーンは副社長に就任し、ロバート・ヘフナーをマネジャーに選んだ。
 世界一周早回りのための絶対必要条件は、優秀機ベランカ・スカイロケットの購入であったが、全費用の大部分の一〇万ドルをハーンドンの母親であるボードマン夫人が出資し、ハーンドンの叔母も一万五〇〇〇ドルを援助して、二人は期待のベランカを手に入れ、「ミス・ビードル号」と命名した。
 豊富な資金を得たハーンドンは、一九三一年、三月二十一日発行の雑誌「ニューヨーカー」に次のような談話を掲載している。                       
 「私たちはだれからも寄付を求めない。購入するガソリンもオイルも、すペて現金で支払う。そして、私たちは、この長距離飛行のために、今までになかったような周到な準備をするつもりである。」
 当初購入したべランカのエンジンは、ライトホワールウインドJ六であったが、パングポーンはハーンドンを説得して、ワスプ四二五エンジンに替えさせた。
 これは、ワスプ四二五はライトJ六よりはガソリンの消費量が多く、航続距離の点からほ不利であったが、短距離の滑走路で離陸が可能であるという利点があった。パングボーンは、世界一周の航程の途中、未知の国々の飛行場の滑走路で、最悪の条件下でも離陸できるようにするために、ぜひワスプ四二五エンジンに交換しておく必要があると考えたからであった。
 この措置は、後日、淋代海岸からの離陸成功に大きく貢献することになった。
 

ミス・ビードル号の途中経過 

ニューヨークを発ったミス・ビードル号は、途中深い霧に遭遇して進路を誤まり、ロンドン郊外のクロイドン到着前に、ウエールズの一農村モイルグロープに不時着を余儀なくされた(この間大西洋横断は三一時間四二分で飛行している)。その後、モイルグロ−ブには一〇時間程滞在して機体の点検等を行って離陸、クロイドン飛行場に到着したのはそれから二時間後であった。
 今度の計画実施にあたって、可能な限り着陸回数を少なくし、着陸地における滞在時間をなるべく少なくすることが成功の鍵だと考えていたパングボーンは、予期せぬ不時着による時間のロスに焦りを感じていたから、ロンドン到着時も、一時間以内に給油を終えて、モスクワに向けて出発したいと考えていた。
 ところが、クロイドン飛行場に待ち受けていたハーンドンの親類が、飛行機が到着するとすぐにハーンドンを自宅に連れていき、ハーンドンは六時間を経過しても戻らないという事態が発生した。
 いらだったパングボーンは、単独で飛行する覚悟を決め、エンジンを始動させたところに漸くハーンドンがかけつけたが、ここでの時間の浪費はパングボーンにとって口惜しいことのひとつとなった。
 ロンドンのクロイドン飛行場を三十日午後十時十三分に発ったミス・ビードル号はベルリンのテンペルホーフ飛行場に三十一日午前三時三十分に到着、少し休憩しただけで、同日、午前六時四十九分にモスクワに向かったのである。
 しかし、この時点で、既にポスト、ゲッティの記録に、約九時間五八分の遅れをとっていた。
 そしてさらにモスクワの飛行場を三十一日午後十一時三十二分に出発して、ウラル山地を越える際、強風に遭遇したため高度維持に困難を極めた。そのため、山地を越えることをあきらめ、山脈に沿って大きく迂回し、一層時間をロスする羽目となった。

 そして、ノボシビルスクを経てシベリア最後の地点であるハバロフスクへ向かう途中、再び進路を失ってディーガリに不時着というように悪い条件が重なるばかりで、オムスク、チタを経由してハバロフスク飛行場に到着した時は、激しい降雨の中を漸くの思いで着陸したのであった。ところがこの着陸に際して、滑走路が泥海のような状態であったため、着地の際にブレーキがきかず、滑走路をはずれて深いぬかるみに突込んでしまうという、最悪の事態に陥ってしまったのである。翌日、天候の回復を待って、数百人の人夫に機体を引張ってもらったが、その時点で、ポスト、ゲッティに約二七時間以上も差をつけられ、最早、世界一週飛行の記録更新は断念せざるを得なかったのである。結局二人は、ニューヨークからハバロフスクまで、一四〇時間三二分を費して、それ以降の飛行を放棄した。
 

計画の変更 

このような経過で、世界一周早回り飛行に挫折した二人は、ハバロフスクで天候の回復を待つ間、新しい計画について検討していたが、折よく、日本の朝日新聞社が最初の太平洋横断無着陸飛行に対して、二万五〇〇〇ドルの賞金をかけていることを知って、パングボーンとハーンドンは太平洋横断飛行に新たな闘志を燃やしたのであった。
 そのことについて、早速ニューヨークのR・T・W(世界一周飛行会社)事務所に連絡をとり、その準備にとりかかった。
 準備というのは、日本への飛行のための許可手続きであったが、二人の居場所がハバロフスクという異境の地であったために、思うように捗らず、結局二人がなし得たことは、東京のジャパンタイムズの編集者に電話をかけ、東京から立川飛行場への方角と距離を打電してくれるよう依頼することであった。同時に、アメリカ大使館にも、日本の航空官庁に対し、着陸許可申請書を提出してくれるように依頼し、その返事を待ったのである。

ミスビードル号日本へ

 ところが、東京からの返電を待っている中に、ここ数日間泥海のようだったハバロフスク飛行場の滑走路が乾いて、離陸可能な状態になった。そこでバングポーンとハーンドンは、東京からの返事を待つか、それとも、また次の雨がやって来る前に直ちに出発すべきか迷った挙句、東京からの返事が届く前に出発することに決定したのであった。ハバロフスクに八月三日到着してから、既に三日を経過し、太平洋横断のためには、北太平洋の天候が悪化しない十月前にはぜひ決行しなけれはならないし、そうだとすれば、さまざまな準備期間も必要とするなども考え合せて、一刻も早く東京へ向けて出発すべきであるという判断に達したからであった。
 この決定が、直後に、パングポーン、ハーンドンに大きな不幸をもたらすことになろうとは全く想像もつかなかったのである。
 八月六日、午前六時五十五分、ミス・ビードル号はハバロフスク飛行場を離陸した。新たな目標に向かって、勇躍出発したのである。
 しかし、二人が出発して間もなく、ジャパンタイムズからの返事が届いた。それは、二人が依頼してやった方角に関する情報と、アメリカ大使館からの申請に対して、日本の航空当局から許可が得られるだろうという内容のものであったが、二人は、この情報を確認しないまま、日本を目指して飛んでいた。
 日本までの航程は、それまで苦労して飛んできた航程と比較して、短く、また易しいコースであった。ミス・ビードル号は北海道神威崎、函館上空を通過して、津軽海峡を越え、青森県下北半島の海岸沿いに南下、大洗、犬吠埼を経て、東京湾へと飛行したのである。
 その日、真夏の日本列島は濃い緑に覆われ、青い海と、海岸線に打ち寄せる波の白さが、二人の眼に美しく眺められた。
 ハーンドンは搭載していた十六ミリ撮影機とカメラをとりあげ、交互にシャッターを切った。それは、二人にとってまさしく絵のような美しさであった。
 太平洋岸沿いに飛んで東京湾まで来ると、新設されたばかりの羽田飛行場に着陸したがまだ一般に供用されていない旨を告げられ、直ちに立川飛行場に向かうように指示された。
 午後六時十五分、ミス・ビードル号の紅い機体は、立川飛行場の滑走路に着陸し、日本航空輸送株式会社格納庫前のエプロンにつけたが、別に関心をむける人間もなく、格納庫前にある別な飛行機に多くの人たちが群がっていた。
 その日、二人が立川飛行場に到着する二時間ほど前、午後四時十七分に、イギリスの女流飛行家ミス・アーミィ・ジョンソンが軽飛行機で飛来し、それが人々の関心をひきつけていたのであった。
 

取調べられた二人

日比谷警察署で取り調べを受けるパングボーンとハーンドン

 二人はミス・ビードル号から降りると間もなく石田房雄飛行場長に許可証の提出を求められたが、当然それに応ずることができず、警察の取調べを受けることになった。その夜、十時まで取り調べを受けたが、米国大使館員安藤進一が身柄引き受け人となって、帝国ホテルに入った。
 二人に対する警察と憲兵隊の取調べについて、パングボーンは次のように述べている。
 「確かに我々は飛行許可証を持参していなかった。そのことについて、私たちは、アメリカ大使が既に手配ずみであると思っていたからだ(ハバロフスクから依頼の電話をしておいた。)
 それから、我々は確かに要塞地帯の上空を飛行し、写真撮影を行ったが、これは要塞地帯であるということを全く知らなかったことと、上空からの景色があまりにも美しかったので、旅行者として、その美しい景色を記録しておきたいと考えたからであった。            
 日本の官憲はしつっこく我々に質問したが、その多くは、全く私たちにとって馬鹿げたものはかりであった。
 例えば、私たちの荷物の中に、数ポンドの米を発見したとき、その理由を執拗にせんさくし、不時着時のための非常食糧であるという私たちの説明を全く理解しょうとしなかった。
 また、世界早回り飛行の半ば以上を飛んでハバロフスクで泥沼に突っ込んで、その計画を断念した事情についても、彼らはなかなか信じようとしなかった。まして、私たちが前述のように、要塞地帯を飛行し、写真撮影を行なったことは、全くの無意識での行為で、決してスパイなどという目的ではないことなども、いくら説明しても分かってもらえなかったのである。」
 

 二人の罪状 

二人の罪状は、
 @ 不法入国
 A 航空法違反
 B 要塞地帯法違反
の三点であった。パングボーン、ハーンドンは監禁こそされなかったが、帝国ホテルに準拘束のような形で滞在を余儀なくされた。その間、在日アメリカ大使に仲を取りもってくれるように頼んでも、日本の法律を侵犯した事実はどうにもまげることはできないという返事しか戻ってこなかった。
 そこで、直接、米本国のポーラ上院議員を通じ、ワシントンの日本大使に対し、取りなしてくれるよう依頼した。
 このような二人の違法飛行に対して、日本国内の世論はどちらかと言えば強硬であったし、航空局も、必罰で臨む態度であった。
 例えば八月十一日付の東京日日新聞には、次のような記事が掲載された。
 「ハーンドン氏ら処罰さる模様、機体あるいは解体か
 当局強硬書類検事局送り
 ハ、パ両飛行家の違法飛行に関するわが当局の態度を決定すべき最後の協議会を、十日午前十一時逓信省航空局に開き、陸軍軍務局島田中佐、海軍軍務局大島中佐、警視庁檜垣交通課長、助川警部、逓信省戸川航空局長、及び児玉、伊勢谷両課長などが、、先日来、警視庁に嘱して両飛行家の取調べの結果を持ち寄り、航空局長室を密閉して会議の結果、午後一時半に至り、漸く終了し、午後二時、一件書類とともに検事局に送られ、今後の処分は警視庁検事局に委嘱することになったが、航空法規に定められた処罰条項の適用を受ける模様である。
 航空局の意見としては、
 両飛行家の態度は非常に無頓着な、むしろ、朗らかなフランクさから出たものと善意の解釈をしていたが、その後の取調べにより、陳述にいつわりの点があり、地図の上で犬吠崎を指し「この辺は景色が良かったので、ちょっと撮影してみた。」などといいながら、写真を現像してみると、北海道あたりの要塞地帯その他を撮影している事実が明瞭となった。
 また、従来、指定コース以外のコースを飛び、または、指定地以外の地点に着陸した外国飛行家も二、三あったが、それらはことごとく不可抗力によるものであり、なお、その飛行家の国の大使館員がいち早くかけつけて遺憾の意を表し、百方釈明につとめたものであったが、今度の場合は全然それらの誠意が認められない。
 また、無断で入国飛行をしてきたものは、着陸現場で取り押さえることができるが、日本から国法を無視して、無断で国外に飛び出すような無法者がある場合を想像してみると、今度の事件はこれら将来のことに備え、厳しい態度で臨む必要があり・・・・・」と伝え、さらに八月十二日の東奥日報はその後の経過を次のように記している。
 「ハーンドン、パングボーン両氏に係る航空法違反並びに要塞地帯法違反事件の係、市島、長尾両検事は十一日午前、例の十六ミリフィルムを映写して地図と対照して研究をなし、午前十一時、同フィルムを携帯して検事局に引き揚げたが、該フィルムは両氏の言明を裏切り、要塞地帯が歴然と撮影されており、その陳述もでたらめの点があるので、両検事は今明日中に立川に出張して、早回り機に取りつけてある自記高度計等を検査し、右のフィルム撮影のため、どの位高度を下げたかを調査することになったが、その点は、撮影問題解決に重大な関係を有するものと見られる。
 尚、日本の航空法は外国の航空法に比べて寛大なものがあり、これらを料酌しても、検事当局の同問題に対する態度はすこぶる強硬なものがある。」
 これらの記事を読んでもよく理解できるが、パングボーン、ハーンドンに対する日本の官民の感情はいずれも強硬論が多かったのである。
 そして遂に八月十五日、中島判事から一名二〇五〇円、両名で四一〇〇円の罰金刑に処せられた。
 それと同時に、機体は税関手続きの不備から封印され、立川航空輸送会社格納庫に収容されてしまったのである。
 ハーンドンは早速ニューヨークの母に罰金二〇五〇ドルの支払いと、ミス・ビードル号の油槽の増設に要する費用二〇〇〇ドルの送金を依頼し、折返し送金されて来ると直ちに罰金を支払った。
 そして、八月十九日午前十時三十分、アメリカ大使館のターナー書記官に伴われて航空局の伊勢谷管理課長を訪問して、今回の事件を惹起し、当局に多大な迷惑をかけたことを陳謝した。これは、続く太平洋横断飛行の許可を得るために逓信省の心証をよくしておこうとする配慮からであった。
 罰金を支払うと、パングボーンとハーンドンは八月三十一日正式に朝日新聞の懸賞に応募して、離陸許可の出るのを待っていた。そして、税関手続きを済ませて、ミス・ビードル号の機体の改造に着手した。
 朝日新開が四月二十日付で発表した懸賞の内容は次のようであった。                                                                                                                                             1.飛行機を以ってする太平洋横断なること
2.途中無着陸(無着水)のこと
3.飛行機の種類を問わざるも、なるべく無電設備を有すること
4.飛行家の国籍を問わず

5.搭乗者の人数を制限せず
6.日米いずれの側より出発するも随意とする。但し、離陸地は米国にありてはヴァンクーバー以南とし、日本にありては本州内とす。空中給油を行うことを得
7.懸賞期間は昭和六年四月二十日より向う一か年とす

 二人はこの朝日新聞社提供の懸賞に応募すると同時に太平洋横断飛行許可願いを航空局に出願したが、罰金刑に処せられた二人に対して、世論はなお厳しかった。許可の出るのをまさに一日千秋の思いで待っていたにも拘らず、逓信省は依然として態度を決定せず、九月に入って瞬く間に日が過ぎていった。
 九月八日に至って、政府の定例閣議において幣原外相は、両飛行士が既に罰金を納入済みであるから、太平洋横断飛行の出願に対して許可を与えないことは、今後、日米親善関係上好ましくないので、許可することを考慮してはどうかという意見を述べた。これに対し小泉逓信大臣は、既に罰金は取ったが、これは前例となるから、逓信省としてはなお十分考慮の上、陸海軍と協議して決定を与えたいとの意見を述べ、結局、航空当局と陸海軍と協議の上決定することになったのである。
 ハーンドンはやむなく、再びニューヨークの母を通じて米本国政府に依頼、早急に許可するよう米大使館を通じて日本政府に働きかけてもらった。
 折よく、リンドバーグが、妻のアンを伴ってニューヨークからロッキード・シリウス水上機に乗って来日していた。北太平洋航空路調査飛行の目的で、日本経由南京までのコース途上八月二十四日、根室に到着、その後二十六日霞ケ浦に到着、盛大な歓迎を受けていたのである。そのリンドバークが、パングボーン、ハーンドンに飛行許可が与えられるよう日本政府に働きかけてくれたのであった。
 しかし、八月三十一日に許可申請が提出されてから二週間経過しても、航空当局はその態度を明らかにしなかったので、漸く非難の声が高まってきた。
 そのため逓信省は数回にわたり陸海軍当局並びに外務省の関係官を招集し協議したが、なんらまとまることなく、ただ日が経過するばかりであった。
 ただ、当初、極めて強硬な態度であった航空局も、次第に軟化の傾向を見せはじめた。
 というのは、当初、航空局は、航空法違反によって処罰された場合は、操縦士の免状を取りあげるという我国の航空法にのっとり、一定期間飛行を停止せしむることは当然であり、したがって今回の太平洋横断飛行は不許可とするという方針であったが、その後、外務省より国際関係に影響を及ばす問題であるから慎重に考慮すると共に、日米親善のため、なるべく許可されたいとの意見書が提出されたので、逓信省としては、最初の方針を再検討せざるを得なくなったのである。
 それでも、なお、その態度決定をためらって逓信省は、苦しまぎれに、次のような手段を講じて失敗した。                                          
  九月十七日付 東奥日報夕刊
   外務省に手を廻して
   許可願の撤回懇望
    パ・ハ両氏がウンと言わぬので航空局進退両難に陥入る。
  パ・ハ両氏は帝国ホテルに滞在したまま飛行許可の下るのを待っているが、十五日、外務省の岡本欧米第二課長は逓信省に戸川航空局長を訪問し、同問題につき協議を重ねた結果、推測せられる処によると、航空局としては、諸般の事情より考慮して許可するは困難であるが、一方国際親善もおろそかにすることはできないとの見地より、問題の最初より、なるべく許可、不許可等の行政処分に出ずることを避け、極力、外務省及び米国大使館を通じて両氏へ許可出願書の撤回方を要請した模様である。然るに、両氏の横断飛行に対する熱望は相当動かし難い根強いものあり、願書の撤回は殆んど困難とて、航空局としては全く動きのとれない状態である模様である。
  従って、このまま両氏として願書の撤回をなさざる限り、結局最後の手段たる行政処分により、許可、不許可を決定する外なく、既に飛行シーズンも終らんとする今日、いつまでも荏再日を過して同問題をうやむやに葬る訳にもいかないで、近く何らかの最後的解決を見るであろうと観測される。

 この記事は推測によって書かれた記事であるが、事実、これに近い内容の撤回工作が行われたらしく、政府当局の困惑ぶりが伺われる。
 さらに九月十九日の朝日新開は次のように報じて、いよいよ政府の態度が決定されることになった。
  

  ハーンドン氏等の太平洋横断飛行許可の模様、閣議で処置を逓・陸相に一任
  両氏の許可問題については、十八日の閣議に於て、小泉逓相よりこれまでの経過を詳細報告して種々意見を交換したが、この問題については、過般、駄日米国大使より外務、逓信両省に対して許可方の交渉があり、外務、逓信両省に於ては、今回限り飛行を許可の内意があり、更に陸軍側と交渉していたが、政府の意向としては、今回に限り飛行を許可するのが妥当であるという意向に傾いた。よって、その最後的決定は、逓柏、陸相に一任することになり、両相は閣議散会後、首相官邸に居残り、種々意見を交換したが、結局一回限りを条件として飛行を許可する模様である。
 このようにして、最終的には九月十九日、逓信省で両名に対し厳重な条件を付した上、詫び状と、今後に備えた一札をとった上、横断飛行を許可した。
 そして、これと同時に、許可するに至った声明書を発表したのである。
 「第二世界早廻りを目指しての飛行途中、之を断念してハバロフスクから一気に我が国へ飛来した米国のハーンドン、パンクボーン両氏は、その後、太平洋無着陸横断飛行を決行すべく、逓信省へ許可申請中であったが、何しろ航空法違反、要塞地帯撮影等の問題を起こした関係上、その許可に付いては可なりの慎重なる審議を重ねていたが、遂に九月十九日に至り、条件付許可を与えることになり、同時に逓信省は次の通り声明書を発表した。                    

逓信省声明
一、米国飛行家パングボーン及びハーンドン両名は、今般本邦より米国に至る太平洋横断無着陸飛行を計画し、右飛行に必要なる許可を米国大使を経て出願し来たれり。
一、政府は、これら両名の飛行家を問諜行為をなしたるものとして遇せんとするに非ずといえども、かかる違反行為をなし、これがために処罰せられたる者に対し、行政処分を以ってその航空免状を取り消し又は停止することあるべきは、我国航空法施工規則に明定するところなるのみならず、米国その他各国の航空法制についても同様にして、内外の前例に徴するに処分せられたる飛行家に対しては、その飛行を禁止、又は停止し来たれり。然して、これら両飛行家の有する航空免状は、米国政府の発給に係るものなるにより、これを取り消し又は停止することを得ずといえども、少くとも、前記内外航空法制の原則に照らし、帝国領土の飛行を許可せざるはけだし当然の処置なりと認む。然して右は、後掲の通り米国政府もまたこれを承認せる所なり。
一、然るに、米国政府は両名をして太平洋横断飛行を遂行せしむることを熱心に希望し、これが許可に関し、中日米国大使をして、再三我が政府に懇請せしめたるのみならず、最近更に、左の要旨の書簡を以って、特別の詮議により将来の前例となさざる特別の許可を与えられんことを懇願すると共に、米国飛行家をして、我が国法を厳守せしむるべきことを制約し来たれり。
 『本大使は、バングボーン及びハーンドン両名の出願せる飛行に閑して、貴国政府が行政上の処置としてこれを許可し難き正常なる理由を有することを十分諒解致し候・然れども、日本及び米国間の太平洋横断無着陸飛行を遂行することは、国際航空の振興発達に貢献する所甚大なりと確信せらるるを以って、彼等の両名をして、右飛行を遂行せしむることは、米国政府の熱心に希望するところなるにつき、特別のご詮議により将来の前例となさざる本件限り特殊の例外として、本出願に対し、許可を付与せられんことを懇願致し候。
  余は、先に申達侯通り、去る八月ハバロフスクより東京に至るこれ等両名の飛行に際して惹起されたるが如き法規違反を、両名及びその他の米国飛行家をして、将来再び発生せしめざる様、全力を尽くすべきことを保証し、ここに重ねて申述ぶる次第に有之候』
一、よって、右米国政府の懇請を容認し得るや否やに関し、関係各省間に於て慎重審議を重ねたるところ、前述の通り、本飛行は米国政府の切望するところのみならず、日米間の太平洋横断無着陸飛行は国際航空の振興発達に貢献するところ甚大にして、善隣の閑係にある両国間の航空交通の発達を企図するは、国際親善の増進に寄与するところ少なからずと認めらるるにより、特に今回限りの特例として右懇願を容れ、将来の前例となさざること、及び一回の飛行を条件として、本件飛行はこれを許可することとせり。本件飛行の許可は上述の通りこれを前例となさざる全く特別の許可なるをもって、政府が従来取り来たる内外飛行機並びにその乗員に対する公安上及び国防上必要なる取り締まり方針は、本件許可により毫も変更せられたるものに非ざることをここに声明するものなり。」
 

 そのころ、パングボーン、ハーンドンは、逓信省の許可がなかなか出ないことに対し、新聞記者の質問に次のように感想をのべている。
 「私たちは、太平洋横断飛行の許可を一日千秋の思いで待っておりますが、いまだに航空局からも、米国大使館からも何の通知も受けていません。しかし、私たちは必ず許可が出るものと固く信じて、決して焦慮してはいません。
 愛機ミス・ビードルのコンディションは申し分なく、太平洋を無着陸で横断する長距離飛行に耐え、得るものと確信します。ぜひとも、許可あり次第、今月末の月明りを利して淋代から飛びたいと思っていますが、遅れて十月初旬に飛ばなければならない破目に陥っても、決行するつもりです。それについてはいずれ研究してみます。
 私たちのベランカとアレン、モイルのマッジ号を比較すれば、その性能においてほとんど大差はありませんが、ただスピードの点で、私たちの方が少し勝っていると思います。ベランカは最高一五〇マイル、巡航速度一二〇マイルの速力であるから、私たちの期待はこの一点にかかっている。
 ガソリンは新しいタンクをとりつけたので、九五〇ガロン積めるはずです。成功、不成功は天候いかんによるものと思います。」
 

秘密の機体改造 

パングボーンは、税関の手続き不備で封印されてい機体が、その後の手続き完了によって解放されると、ガソリソタンクの増設などの機体改造の準備に取りかかっていた。それは立川航空輸送会社の格納庫内で、パングボーン、ハーンドンの他に、二、三名の外人の応援を得て行われていた。
 当時、太平洋横断飛行を計画し、後日淋代から出発した第三番目の飛行士ドン・モイルとセシル・アレンの飛行機クラシナマッジ号も同じ立川飛行場の格納庫で、機体の改造に余念がなかった。
 パングボーン、ハーンドンに比較して、資金が豊かでなかった二人は、かなり切りつめた生活を続けて、ひたすら横断飛行準備に励んでいたが、幸いなことに、モイルはエンジンの分解組み立てなどに精通しており、酸素溶接技術などにもすぐれていて、クラシナマッジ号の機体改造は順調に進んでいたのである。
 

改装なったミス・ビードル号(立川飛行場にて)

二組の飛行士たちは、互いにライバル意識を持ちながらも、顔を合わせると、同国人のよしみもあって、元気に声をかけ合っていた。
 しかし、九月二日、モイル、アレンに対し先に横断飛行許可が出されて、クラシナマッジ号は九月八日、午前五時二十八分、淋代を離陸したのである(別項参照)。
 その後、クラシナマッジ号は、途中、べ−リング海上の無人島に不時着して失敗したがその間、先を越された上、依然として飛行許可の出ないパングボーン、ハーンドンは、モイル、アレンの飛行経過を複雑な思いで見守っていた。
 二人は、そのことについてさまざまな質問を投げかける新聞記者に対してはほとんど答えなかったが、友人に対しては「もしクラシナマッジ号が成功すれは、我々の計画は放棄する」と語っていた。
 そして、クラシナマッジ号が八日淋代を離陸してからは二人とも強い関心を寄せ、九日の夜はほとんど眠らず地図とにらめっこをして、シアトル到着の報を待っていたが、十日の朝、五○時間を経過しても消息がつかめないという情報が入ると、ガソリンが四十七時間分しかないことをあげて、心配そうに次のように語った。
 「今になってもまだ到着の報がないとすれはもちろんこの横断は失敗したに違いないが、多分どこかに不時着しているものと信ずる。
 不時着の場所として考えられるのは、大きくいって二か所ある。
 まず近い場所としては、カムチャツカの東海岸が考えられる。次に、かなり飛んだダッチハーバー以東になってから発動機の故障かあるいは悪天候とたたかって、意外に時間をとられ、シアトル到着不能であるのを見越して北に向かい、アラスカ半島に不時着してはいないだろうか。
 実際あのあたりは霧が深いし、コジャック島付近は暴風雨の名所であるから、シアトルを眼の前にして失敗したのかも知れない。しかもあのあたりは人がいなかったり、いても通信機関がなかったりするから、不時着していても直ちに発見されるとは考えられない。だから二、三日消息を絶っても、我々は両君の生存に関する希望を絶たない。」
 この推測が、かなり正確だったことが後日証明されたが、このように語りながらも、二人の心中には、モイル、アレンに代わって、太平洋横断に対する新たな決意が湧き起こったに違いない。
 以上、さまざまな経過を経て、九月十九日二人に対して特別な配慮による太平洋横断飛行許可が出されて、十月初旬の飛行を目指し最後の準備がはじめられた。
 前述のように、二人に対して出された特例による許可は、内容に厳しい条件が付けられていたが、それらの中で、「機体の改造は不可」「一回限りの離陸とする」という条項があった。
 このため、パングボーンは、二つの大きな改造を、秘密裡に遂行しなければならなかった。
 その一つは、ガソリンの積載量を増加するためにタンクを増設することであった。ベランカ・スカイロケットは、ニューヨークのルーズベルト飛行場を出発する時点では、
 ・主油槽     四〇〇ガロン
 ・翼内油槽   二百二十ガロン
 ・胴体下部   百三十五ガロン
  合   計  七五五ガロン

を搭載していたが、アメリカ西海岸まで四五〇〇マイルを無着陸で飛行するためには、どうしても燃料タンクの増設が必要であった。
 そこで、彼等は立川の日本航空輸送会社の格納庫の中で、ごく限られた米国の友人たちの手を借りて、胴内下部にさらに六〇ガロン入るタンクを増設し、タンクの総容量を八一五ガロンとし、その他に機内に罐入りのままのガソリンを八五ガロン積みこむ計画であった(実際には九三〇ガロンを積み込んだ)。
 この改造により、べランカの機体は胴体下部が異様にふくれて、金魚を思わせる格好になった。

 もう一つの改造は、着陸装置を離脱可能にすることであった。二人の計算では、燃料を満載しても、アメリカに到着するためにはぎりぎりであると考えられたので、少しでも燃料の節約を考慮しなけれはならなかった。そして考え抜いた結果、バングボーンは、離陸後着陸装置を離脱させることを決定したのである。
 彼の計算によると、着陸装置を取り除くことができれは一時間約十五マイルほどの速度を増すことが可能であり、横断に要する時間を四〇時間とすれば、紛六〇〇マイル相当の距離を付加できると考えた。
 そしてパングボーンは、このことが、二人の飛行の成功、不成功を決定する大きな鍵になるだろうと思ったのである。
 パングボーンはこの大胆な計画を決定すると、すぐに作業に取りかかった。
 車軸の先端に穴をあけてピンをはめこみ、そのビンから鋼索が操縦席に通じるよう工作し、鋼索を引っぱることによってピンが外れて車輪が脱け落ちるという装置であった。
 そしてさらに胴体着陸の際に滑走をよくするために、機体の腹部に新たな鉄板を取りつける作業も行った。立川においては、車軸に穴をあけることや、鋼索の通路などの工作を行い細部については、淋代において行うことにして、横断飛行許可後十日ほどして、ほぼ飛行準備は完了した。
 九月二十七日、パングポーン、ハーンドンは、ガソリン五五ガロンを積んで、機体改造後はじめての試験飛行を行った。その結果は極めて良好で、ミス・ビードル号は想像以上の優秀さを見せた。
 九月二十九日、午前四時三十分、帝国ホテルを出発した二人は、立川飛行場に到着すると、早速淋代へ空輸の準備にとりかかった。機体の点検、携帯品の績み込み等に時間を費やし、午前九時に漸く準備が終わった。そして午前九時三十分、朝日新聞社格納庫前に引き出されたべランカの機体を前にして、立川町長の娘中島とし子から立川町の花束が贈られ、同じく朝日新聞社の片桐機関士の娘和子からも花束が贈られて、パングボーンもハーンドンもいつになくひげを剃り、皮の飛行服を着て晴れやかな表情であった。その後木本飛行場長から空路の詳細な説明を受けると、朝日の斉藤寅郎記者と、通訳のエバンスが同乗して、午前九時五十五分、淋代にむけて離陸したのであった。
 離陸するとすぐに海上に進路をとり、淋代を目指して北上したが、これは飛行にあたって、海岸線から五〇マイル沖を、北方へ向かって二〇〇マイル飛行するよう義務づけられていたからである。
 したがって、地図上では約三〇〇マイルの距離であったにも拘らず、実際には四〇〇マイル近くを飛んだ。
 途中天候に恵まれ、午後一時九分淋代上空に到着、直ちに着陸した。経済速度で飛んで立川〜淋代間を三時間一五分であった。
 淋代海岸には小比類巻要人前三沢村長をはじめ、太田常利海軍少佐等が出むかえた。

慎重を期す二人 

  二人は着陸後、これらの人たちに挨拶をすますと、早速滑走路の実地踏査をはじめたのである。そして、二、三百メートルほどを確かめるように歩くと、満足したようにまた機体の側に戻った。
 そして、引き続き、疲れた様子もなく、シャベルを握って機体をつなぐための穴を掘ったり、機体の点検を入念に行って見物の人たちを驚かせた。それまでの飛行家たちとは比較にならぬほど行動的であった。
 滑走台から滑走路に敷きつめた板が、前回のクラシナマッジ号に合わせて作ったものであったので、パングボーンは地元民の応援を得てその敷き直しを行い、その日の夜に入ってその作業を完了させた。
 午後三時ごろから天候がくずれ出し、やがて雨が降り出した。二人は機体の損傷を恐れて地元の青年団やエバンスの協力を得て、厳重に機体を繋留し、翌三十日の出発予定を延期して、十月一日とすることを発表した。
 パングポーンとハーンドンが飛来する前には、この二人が、今までの飛行家とは違った性格で、機体の側にテントを張ってキャンプするなどという噂もあったが、結局、アッシュやモイル、アレンと同じく、小比類巻宅に宿をとることにして、午後六時、淋代海岸から引き揚げた。同夜は細谷、淋代の青年団が二か所にテントを張って警戒に当たった。
 三十日は昨夜に引き続いて小雨模様であった。
 パングポーン、ハーンドンは午前九時には淋代飛行場に着き機体の点検、滑走路の板敷き作業の確認を終えると、燃料のガソリン九三〇ガロンの積み込み作業を開始し、午前中には全部を終了した。午後、前夜の雨で滑走路の前方に堆積した砂を村民二〇名ほどでかき退ける作業を行った。
 青森県警察部では、先に二人の起こした事件に対する反発から妨害が予想されるとして、三本木警察署員二名を警戒のために淋代に派遣、さらに地元の在郷軍人、消防組合員、青年団員等が交替で徹夜の見張りを行って、四回目の横断飛行に協力を惜しまなかった。
 殊に、たびたびの無着陸横斬飛行に際して、全面的に協力してきた細谷、淋代南部落及び三沢村の有志全部は、淋代を利用して飛行する飛行家を支援する目的を以って「淋代飛行協会」を結成していたことは注目に価する。
 この会は、財政の苦しい村役場が、横断飛行が決行されるたぴに多少の出費を続けてきたものの、今後もそのような期待ができない状態にあることを前村長として十分承知していた小比類巻要人が村民に呼びかけて結成したもので、淋代を将来国際的飛行場にするとともに、今後、淋代飛行場を利用する人がある場合は、従来のように役場に頼らず、協会の手によってすべて便宜を図ってやることを意図して結成された会であった。
 会長に小比類巻要人、副会長浪岡貞次郎、幹事長には淋代青年団長浪岡貞が推され、三沢淋代に至る村道を県道に編入する運動を開始していた。また、それまでは滑走路の北端細谷部落側に滑走台が設置されていたが、今後さらに滑走路南端淋代寄りにも滑走台を設置して、南北いずれからも離陸できるよう、計画の実現に乗り出していた。
パングポーン、ハーンドンの場合、航空法の違反による罰金刑を受け、その後の太平洋横断飛行許可に関して、日本国中の注目をあつめたこともあって、東京滞在中は右翼団体をはじめ、軍部などはどちらかと言えは横断飛行の企画には否定的な態度をとり続けていた。しかも九月十八日、満州事変が起きた直後だったから、二人にとっては不愉快な出来事がときどきあった。
 例えば九月二十九日、立川から淋代にミス・ビードル号を空輸する際、右翼団体がその出発を阻止するためにことを起こすかも知れないという情報や、午前八時まで豊川飛行場を出発しない場合は、立川飛行隊がそれ以後の離陸を許可しないなどのいやがらせの噂が二人を心配させたりしたのであった。
 しかし、三沢村の村民たちは、飛行家の国籍や、軍関係の意向などには無関係に、とにかく、太平洋横断飛行という世紀の大事業の出発地点に淋代海岸が選択されたことを無上の喜びとし、その成功のために村民をあげて協力援助を借しまなかったのである。
 ここで、三沢村淋代海岸が太平洋横断飛行の出発地に選ばれたいきさつに触れてみたい。
 一九三〇年八月三十日、午前五時十九分プロムリーとゲッティは霞ケ浦航空隊の全面的な支援を受けて航空史上初の太平洋無着陸横断飛行のために同飛行場の滑走路を発進し離陸しようとしていた。しかし、一分間、一五〇〇メートルを滑走したが離陸せず、前方の燃料庫に衝突の危険を生じたため、三〇〇〇リットルのガソリンを緊急放出して浮力を得、辛うじて二分後に離陸して大事故寸前にその難を免れた。

当時の淋代海岸風景

 そして、再び風の状態を見て挑戦することとしたが、その際、全備重量五トンのタコマ市号を離陸させるための適地を、霞ケ浦以外に探した方がよいという意見を採り入れ、最初、銚
子、木更津方面の海岸を検分することにしたのである。
 その話を開いた朝日新聞社舵空部の木下耶麻次は青森県八戸市から野辺地町に至る海岸線に適地がありそうだと進言して、早速、三沢付近の海岸の調査をすることに決まった。調査に同行した朝日新開の記者斎藤寅郎はその詳細を次のように述べている。
『「今度見て釆た出発候補地のうちでは、淋代海岸が一番良いようだね。どう思う」
「僕もそう思う。あの砂地でもロ−ラーをかけれは十分使える。それに牧場の柵さえ取りはらえば、一マイル半ぐらいの滑走路がとれるからこれなら大丈夫だろ」
 東北本線の当時の二等車に向きあって座わった私と、ハロルド・ゲッティとはこんな話をしていた。
 私どもは二人とも生まれてはじめて青森まで行って、いまその帰り道なのである。
 霞ケ浦の海軍飛行場から太平洋横断の壮途に上ろうとして失敗したゲッティは同行のブロムリーと手わけして、いまもっと大きな飛行場を物色しているのだ。ブロムリーは渡辺紳一郎君の案内で、銚子方面を中心として、海岸線づたいに適当な離陸場を探している問に、私どもは社の航空部の先輩、木下耶麻次さんの忠言に基づいて、この東北方面に出て釆たのである。
 「僕は昔から幾度も東北方面を飛んでいるのだが、青森県の古間木から野辺地のあたり上空から見ると恰好なところがありそうに見える。一つ行って探してごらんなさい」
 木下さんからそう言われたので、早速三本木の通信部に連絡すると、通信員の菅原さんから、
 「そんなら、こちらにすこぶる都合のよい人がいる。もと海軍の航空隊にいた太田少佐という、新渡戸稲造博士の親戚の人がご案内するというから、早速来て見てください」
との返事だった。太田さんや菅原さんの案内で、付近の牧場や海岸地帯をくまなく見せてもらって、私どもの気持ちは最後に見た三沢淋代海岸に九分どおり傾いていた。自動車で走って十分平坦であることも確かめたし、長さもこれならまず文句はない。難を言えば、海岸線に直角の風が吹くので、構風の可能性が多いことだが、朝なぎを利用すれば大した邪魔にもなるまい。
 海岸線は南北で、北の端に小高い砂丘がある。私はこれを利用して滑走台を作ったら、離陸滑走の距離が大分短縮されるし、滑り出しに行きあしがついて好都合だろうと思った。
 「プロムリーに相談してここに決めようじやありませんか。滑走台はただ勾配をつけただけでは、翼の仰角がマイナスになるときもできてうまくないから、尾輪と前輪とに別々の軌道をもたせて、適当な仰角を保ったまま滑り降りるように、やぐらを組むことにしましょう。早速設計図を書いてみます」
 ゲッティは万事賛成の面持ちで
 「僕はどうもその方は素人でよくわからないが、たしかに良い考えだと思う。まかせるから一つよろしく頼みます」
 話を聞いてみると、彼は有名な航法の大家ウィームスと一しょにロスアンジェルスで航空航法の学校を経営していた人で、そのころの飛行はもっぱらこれに頼るよりほかなかった天測航法については、すでにいろいろの研究や考案があり、飛ぶ方はプロムリーにまかせて、持って来た特別製のセクスタントで一、二分の短時間のうちに、たちまち天体観測により自己の位置を割り出す・・・・ということだった。
 あとでわかった話だが、一緒に操縦席に座わって操縦梓をもっているのをみると、はなはだたよりない操縦ぶりだが、一たんセクスタントを握ると電光石火、たちまちどこを飛んでいるか計算してみせる。これはまさに名人芸に類するものだった。翌一九三一年、ウィリー・ポストと組んで世界早回り飛行に巨名を博し、たちまち世界航空界の名士に列したのも、決して運だけの話ではない。
 東京に帰って、結局、淋代海岸を出発点と定めることになり、私ども三人にジャバン・アド.ハタイザーのラッドフォード記者を加えた一行は、霞ケ浦から乗用機「タコマ市号」に搭乗して淋代に向かつた。それは一九三〇年九月半ばのことであった。」』

海軍少佐 大内常利 

 この斎藤記者の回想の中に登場する「菅原さん」は、歌手菅原都々子の父で、当
時、朝日新開三本木通信部の菅原陸奥人であり、「太田さん」は、海軍少佐太田常利のことである。
 淋代海岸が太平洋横断飛行の出発地に選ばれた経緯は前述のとおりであるが、実際に淋代海岸を飛行の適地として選定したのは、退役海軍少佐の太田常利であった。
 三本木開拓の租、新渡戸伝の血をひく太田常利は、明治四十一年十一月、海軍兵学校を卒業して、四十三年海軍少尉に任官、海軍航空隊に所属して、横須賀、霞ケ浦等の航空隊気球隊長、戦利航空機実験委員等を歴任後、大正十二年、海軍少佐で予備役に編入されて三本木に帰った。
 以後、三本木で農園を経営、トマト、アスパラガス、パセリー等の西洋野菜の栽培をはじめた。また、養鶏にも着手し、ロードアイランドレッド種(卵肉両用種)を導入したり、養豚にも新しい方式を採用して、人々を驚かせた。
 さらに大正十三年には、カマス、ムシロなどの自動編機を作ることをはじめ、農村の副業開発にも積極的であった。
 大正十四年三月から十二月までの九か月間海軍時代の経験が買われて南部伯爵夫妻の世界一周旅行に同行したこともあった。
 昭和四年ごろから飛行機による長距離飛翔記録に関心を持ち、日本全国の海岸調査などにも着手していた。そして、その時点でも、淋代海岸の適地性を発見していた。
 だからプロムリーとゲッティが霞ケ浦で離陸に失敗した直後、朝日の斎藤記者から三本木通信部に飛行場としての適地を物色してほしいと依頼があった時、通信部員の菅原陸奥人はためらうことなく太田少佐を案内役に推せんしたのであった。
  

 「私は当時、八戸支局にいたが、本社から”三本木の太田少佐が飛行場適地を捜しに行くから会うように” という指示を受けて、今の高館飛行場近くの海岸で待っていた。背の高い笑顔を絶やさない人で、私が待機し ていたのを知って”バカに早いんだなあ”と驚いていた。
 そこから二人で波打ちぎわ沿いに北に向かったが、なにしろ砂浜の連続で、私は夕方までかかって奥入瀬川にたどりつき、そこで別れた。
 太田少佐はその翌日から翌々日にかけて、さらに一人で北上、あそこの場所を見つけたようだった。」

 当時の東奥日報記者、峯正太郎は太田少佐が朝日から依頼を受けて海岸地帯調査に同行した様子をこのように述べている。
 これは直接ゲッティが調査にやってくる前の下見を太田少佐が行っていたことを裏付けているが、慎重に実地踏査をして、ゲッティの来青を待っていたのである。
 九月三日、午前四時五十分、ゲッティは斎藤記者と共に古間木駅に着いた。早朝だったが、直ちに自動車で三沢の北西にある一万平に向い、続いて淋代平を視察、淋代、細谷問の海岸に入って、その付近を入念に見て歩いた。その後、三沢に戻って木ノ下付近の原野を調査、午前七時半には古間木で朝食をとった。朝食後、太田少佐は四川目海岸から一川目、百石を経て、市川村の海岸を案内し、
そこから下田村に入り、三本木町で昼食、午後三時六分、古間木発の列車で帰京というあわただしい日程であったが、ゲッティは仕事着のまま、熱心に太田少佐の説明に聴き入り詳細に自分の眼で確認して歩いた。
 当初ゲッティは、木下耶麻次から三本木付近の平原がよいのではないかという情報を得て、それを中心に視察する予定だったが、太田少佐の事前調査に基づいて精力的に下見をしたのであった。
 その結果、最初に見た一万乎は起伏があり、淋代平は灌木が多く、木ノ下は、一万平よりも起伏が激しく飛行に不適であった。また、市川海岸は八戸の八太郎崎まで実に長いコースを持っていたが、地盤が軟弱であった。
 しかし、細谷、淋代問の海岸については、ゲッティほ、予想もしていなかった適地を発見して眼を輝やかした。
 この海岸は、タコマ市号の離陸に必要な約二〇〇〇メートルのコースが十分とれる長さがあり、起伏がほとんどなかった。そして、さらに歩いて確かめてみると、波打ち際は陸から流れる粘土のため地盤が固くなっていて、ローラーによる地馴らし程度の作業により理想的な飛行場になり得ると判断したからである。
 当時の淋代海岸は、粘土と砂鉄の混じりあった坦々たる放牧地で、牧柵の中には放牧馬が無心に草を食べている場所であった。
 淋代側の木戸から、細谷の木戸口まで、二〇〇〇メートルを超える距離は十分にあったのである。
ゲッティの眼には、天然の飛行場のように映ったに違いない。
 太田少佐は、ゲッティがローラーが借りられるかどうかを心配していたので、すぐに県に問い合わせ、エンジン付ロ−ラー二台の使用許可について内諾を得、ゲッティを安心させた。
 帰京後、ゲッティはプロムリーと相談の結果、淋代海岸を出発地と決定、五日、午前十一時、プロムリーが航空局に出頭して、児玉技術課長と面会、正式に離陸地を淋代としたい旨申し入れた。
 数日後、.フロムリーとゲッティは、出発前の憩いのひとときに、飛行場の名称について話し合った際、トランスパシフィックエアポート(太平洋横断飛行場)や、淋代エアポート、太平洋エアポートなどの案が出されたが、ゲッティは、太田少佐が発見した飛行場だから、その名に因んで「太田エアポート」と名付けるべきだと言った。理想的な天然の飛行場を選択してくれた太田少佐に対する感謝
と敬意をこめたことばであった。
 その後、太田少佐は、米国人による三回の横断飛行と、本間中佐による横断飛行の際にも、常によきアドバイザーとして献身的に協力し、太平洋横断飛行の成功を支えた人物のひとりであったのである。
 話がやや横道にそれたが、十月一日は北太平洋上空になお台風の余波があって、パングボーン、ハンーソドンは一日出発は延期せざるを得なかった。
 そして、その夕方、二日の出発と決めて、機体の整備を終えて宿舎の小比頼巻前村長宅に引き揚げてきた二人は、再度飛行コースを点検しょうとして、地図の紛失に気付いたのである。
 この地図は一般の地図ではなく、二人が帝国ホテルで、アッシュに懇願して譲り受けた地図で、今回の飛行に備えて、詳細に、飛行場の所在地や、不時着地などを記入した、重要な資料であった。
 直ちに身の回り品を点検したが発見できなかった。焦った二人は、慌しく夕食をすますと、再び淋代海岸に出かけ、暗がりの中で、ミス・ビードルの機体内部をくまなく探したが、やはり発見できなかった。
 最後には、機体の一部を切り裂いて、内部を探したが、それも空しかった。
 このことに関して、後日、パングボーンは日本の右翼団体による妨害であったと述べているが、その原因が、パングボーン、ハーンドンの不注意で、東京に置き忘れてきたものかどうか真実は判明しないが、パングボーンの記憶によると、それは確実に淋代へ携行したはずのものであった。
 結局、二日出発の予定は三日に延期されたが、皮肉なことに、中央気象台の天気予報は千島、北海道方面は近来にない好天気であることを報じた。
 パングポーンは急拠帝国ホテルに残してきた別の地図を至急送るよう電話し、二日午後古間木駅到着の列車で送られてくることになった地図を待って、計画を再考することにした。
 ハーンドンはこの突発事故について、十月二日の朝日新聞紙上に次のような談話を寄せている。
 「せっかく天候に恵まれたのに、こんな故障が起こり残念でならない。多分飛行機に荷物を積み下ろした際、紛失したものと思われるが、改めて取り寄せる地図によって、プラんを立て、三日には出発したいと思っている。」
 地図紛失の報せを受けた井上特高課警部はパンクボーン、ハーンドンから事情を聴取し調査にあたったが、盗難や右翼の計画的な妨害によるものではないかという一部の人々の疑念を晴らすために二人に「覚書」を書かせ、あくまでも、不注意による紛失であることを発表させた。
    

覚 書                                      

 一 地図三枚(北太平洋航空地図)                       

 右は昭和六年九月二十九日、立川飛行場を出発し、青森県上北郡淋代に飛来する際に、ミス・ビードル号の左側機上に格納したものと思いましたが、十月一日、午後六時、遺失したるを発見す。
  右の通り相違ありません。
  追書 盗難にかかりたるものに非ざることを確信す.

 十月二日、早朝から淋代に出かけ、前夜、地図を探すために切り破った機体の張り替えなどを行った。
地図は午後二時二十三分、古間木駅着の列車で帝国ホテルのボーイが直接持参したが、パングボーンはみずから駅に出むかえて受領した。
その後、再び淋代に戻り、再度機体の点検や整備とエンジンの試動を行って、明三日午前五時前後の出発に備えたのであった。
 

 心配される離陸

 二日午後八時の中央気象台天候通報は
  「千島、アッツ島一帯は静穏、僅かに三、四メートルの軟風が吹いているのみで、しかも近くに低気圧もない」
というものであった。
 二人はこの通報と、送られてきた航空図を開いて慎重に距離の測定などを行った後、就寝した。
 しかし、パングポーンにとって、絶好の気象条件と、すべての準備完了ということで、全く安心というわけにはいかなかった。胸中に大きな懸念がわだかまっていたのである。
 それは、果たして離陸可能かどうかという心配であった。飛行機操縦の技術においては、米国内でも指折りであるパングポーンであったが、今回の飛行には、積載燃料過重に対する不安がつきまとっていた。
 参考までに出発直前のミス・ビードル号の重量の詳細を記してみよう。
  

滑走台に待機するミス・ピードル号

  

○ニューヨーク出発時

・主 油 槽      四〇〇ガロン
・真内油槽       二二〇ガロン
・胴体下部油槽  一三五ガロン
 合      計    七五五ガロン
であったが、立川飛行場で改装した結果、胴体下部の油槽にさらに六〇ガロンを増量積載されるようになった。
 しかも、太平洋横断に際して罐入りのまま一一五ガロン分を余分に積み込み、燃料だけの総計は九三〇ガロンに達した。重量にすると五四〇〇ポンドであった。
 それに加えて、

 ・機体自重   二七五〇ポンド
 ・乗 組 員    三〇〇ポンド
 ・食糧その他   一〇〇ポンド
  総  計    八五五〇ポンド (三八七八キログラム)


であったから、ミス・ビードル号の翼面積一平方フィートに対して、二八・七ポンド、動力一馬力あたり三ポンドということになり、パングボーンにとっても全く未経験の重量であった(クラシナマッジ号でさえ、翼面積一平方フィートにつき二五・五ポンドであった)。
 したがって、淋代の二二〇〇メートルの滑走路で離陸できるか否かは、べランカの性能と、パングポーンの操縦技術にかかっていたのである。
 十月三日、絶好の気象条件であったにも拘らず、この日もついに出発を見合わせることになった。
 いつものように午前四時ごろ、小比頼巻宅を出て、淋代にかけつけた。普段の場合、この海岸では夜明けから無風状態になるのだが、この日に限って、風速五・六メートルの風が横なぐりに吹きつけていたからである。
 車輪やその他、機体全般について詳細に点検した後、さらに自動車で滑走路を点検した結果、午前八時十分、遂にこの日もまた出発を断念することにした。
 今日こそは出発するかも知れないと見送りに集まった淋代、細谷の人々をはじめ、報道関係者に対し、パングボーンは飛行中の重量を軽くしてスピードを増すために、日本領海より離脱後に、前部の両車輸、及び後部の車輪を、ワイヤーを引くことによって脱落させることにしていることを明らかにした。
 この工作のことは、立川飛行場の格納庫内で極秘に行ったことで、日本人の関係者の中でもこの事実を知っているものは少なかった。それは二人の飛行許可条件として、「機体の改装を認めない」という一項があったからである。

車輪を点検中のバンクボーン

  しかし、この機体の改装について外部に洩らす者もなかったし、逆に.パングボーンたちに種々忠告して、関係当局に知られないように配慮してくれたりした。
 着陸装置を脱落させる工夫については前にも少し触れたが、具体的には次のような方法であった。
 まず、胴体と車輪をつなぐ車軸を中ほどで切り、軸の中にひとまわり細いパイプを挿入して、留めピンを引き抜けば、いつでも下の方の部分が落ちるように工作した。その他、着陸の際のショックを防ぐために緩衝装置なども根元からすっかり落ちるよう、その留ピンを引き抜くようにした。この留ピンを引き抜くためには、操縦席からワイヤーを引っぱればよいのであるが、このワイヤーの通路が、飛行撥の他の部分の操作の邪魔になってはならず、これには随分工夫を要したようであった。
 三日朝、この事実を発表したパングポーンは、手記の中でその時の気持ちを、「公然発表はしたものの、そのために、日本の当局が我等の飛行を禁止しはしないかと不安であった」と述べているが、幸いなことに、これに対する干渉は全くなかった。
 その日、中央気象台午後八時の気象通報によると、千島方向南微風という、飛行にとっては願ってもない条件であったし、同午後四時、落石無線局が傍受した三日午後四時セントポール発電も、 「アリューシャン方面が雲の高さ三〇〇〇メートル、視界広く半晴で無風」を伝えていた。
 午後八時半、二人は早目にベッドに入った。
 十月四日
 午前七時一分、遂にミス・ビードル号は淋代海岸を離陸した。機体はスピードをあげて滑走をはじめ、一二〇〇メートル地点で小さくバウンドし、さらに一五〇〇メートル地点で大きくバウンドし、見守る人々をはっとさせたが、一八〇〇メートル地点でふわりと地を離れたのである。
 それは、パングポーンの卓抜した操縦技術による安定した離陸であった。
 パングポーンはいったん昇ってから、友達や見送りの人々に最後の別れのために一旋回してから太平洋に飛び出した。
 ミス・ピードル号の積載物は、ガソリンの他に不時着時の非常食料として、ヴィードルオイルの空罐に、角砂糖、バター二ポンド、ソーセージ五ポンド、コーヒー、アスパラガス、ミルク、日本茶の各罐詰、固型スープ、チョコレート、チーズ等をつめて密封、その他、機上食として、鶏の丸揚げ数個、黒パンのサンドイッチ、果物、熱湯を入れた魔法びん三本、紅茶を入れた魔法びん一本、飲料水を入れた大きな水筒三個が主なものであった。

ガソリンの積み込み作業

 これらの中、非常用食糧として罐に密封してきたものは、東京から携行してきたものであるが、機上食は、小比類巻チョの
準備したものが主で、その他、新聞社からの差し入れもあった。
 参考までにあげると右の他に、寝袋二、冬外套二、クッション二、毛靴下二、手袋二、軽コート二、簡易手入れ用具一組、時
計二、プラグ一組、シグナル用ピストル一、ハンドポンプ一、毛布二枚、ズボン二、毛下着、レザーコート等も積み込まれていた。
 当日、ミス・ビードル号の出発を見届けてから、直後にプス・モス機で撮影したフィルムを東京へ空輸した熊野飛行士の談を朝日新聞は次のように載せた。

 「はらはらする離陸」

 両氏は淋代に行ってからも実に準備に慎重を極めていた。滑走路の一寸した凹凸にも気を配り、試運転をしてからガソリンを積み込む等、実に細心の注意を払ったのは、大飛行にのぞむ態度としては行き届いたものであった。
 出発の直前、ハーンドンは顔色青ざめ、涙を無理に押さえているようであったが、パングボーンは平然として常に何の変わりもなく、悠然、操縦席について落着きはらっていた。
 また、滑走から離陸までの模様はプス・モス機上から詳さに観察したが、約一〇〇〇メートル滑走したころから、物すごいジャンプをはじめ、一六〇〇メートルごろまでこれを続け、一寸離陸、一八〇〇メートル付近でまた車輪を地につけたが直ちに離陸、見ていてはらはらした。
 離陸後、約五キロを真直ぐに飛び、一〇〇メートルぐらいの高度をとった。ここで旋回して普通ならば海上にコースをとるべきだが、このころ、陸から風が吹いており、両氏は高度をとるためであったろう陸の方に無理に方向をとり、ぐんぐん高度をとって、淋代の上にきた時は高度二〇〇メートル、それからいよいよ海上に出、相変わらず高度をとりつつ、襟裳岬方面に向かい、十分の後、はるか機影を没するころは、約五〇〇メートルの高度をとっていた。」
 また、同じく、淋代海岸に離陸の確認に来ていた井上特高課長は次のように述べている。
 「今度のように機体の手入れの用意周到さは今まで見たことがない。両氏は出発の間際に運転のテストをし、好調子を知るや、エンジンをストップして油を入れ、その他に、座席の下に一種のオイルを入れた。わずかな点にもほんとうに注意していたことがよくわかる。
 私が今までに見てきた四回の横断飛行の出発は、
◎プロムリー、ゲッティは二〇〇〇メートルの滑走を一分三七秒で離陸
◎アッシュは二六〇〇メートル滑走して失敗
◎モイル、アレンは一五〇〇メートルを一分二〇秒で離陸
◎パングポーン、ハーンドンは一八〇〇メートルを六〇秒で離陸
であったから、これをみてもミス・ビードル号の滑走のスピードの速さが理解できるような気がする。」′
 

積載物のこと  

 ここで再び、ミス・ビードル号の積載物に話を戻そうと思う。
 前述のように、燃料の他に衣類、非常用食糧一〇日分、機上食三日分などを携行したのであるが、その中に「果物」もあった。そして、具体的には、オレンジとレモンが記されているが、その他に、書き落とすことのできない「リンゴ」があったのである。
 このリンゴは、後日、青森県のリソゴ栽培にひとつのきっかけを作った、極めて重要な意味を持つリンゴになったのであるが、当日のリンゴの贈り主は、そんなことになるとは夢にも考えずに、ただ機上での食事のデザート用にと、極く当たり前の気持で積み込んだのであった。 
 このことについては項を改めて詳述することにしたい。

順調な飛行続く

 九時三十二分、落石送信所上空を高度一○○○メートルで通過し、九時四十分に は、根室の花咲沖四マイル上空を飛んでいた。
 また襟裳岬二マイルの洋上にあを運天丸は四日午前八時十二分にミス・ビードルの紅い機体が一〇〇〇フィートで北東に向かって飛行しているのを認めた。
 根室半島東海岸の歯舞村民も午前九時四十分ごろ、爆音を響かせながら安定した姿勢で色丹島方面に飛んでいくミス・ビードルを見ていた。そして、さらに午前十時ごろ、ノサップの東方沖に出漁中のコンブ漁船も、晴れ渡った空に飛んでいく鮮やかな紅い機体を見たと報告してきた。
 淋代海岸上空を北太平洋に向かったミス・ビードル号は、羅針盤の針路を七二度、直進すれはカナダのクイーンシャーロット島に到着することになるが、パングボーン、ハーンドンは北海道を経て、千島列島の上空で針路を修正することにしていた。
 出発してから約三〇〇マイルを飛行して、北海道落石の南方海上にあったミス・ビードルは、エンジンも快調そのもので、天候もよかった。このままだと、もう淋代に戻る必要もなさそうだった。
 パングポーンは、予定どおり着陸装置を落下させることにした。この役目はハーンドンであった。
 パングボーンは強い向かい風を避けるために高度をあげ、エンジンの回転数を落としてからハーンドンに作業開始を指示した。最初に右車輪の車軸外側にある留めピンをはずすためにワイヤーを引いた。うまく抜けたようだった。続いて第二のワイヤーを引くと車輪がぐらぐらゆれた。
 しかし車輪は落ちなかったので、ハーンドンは用意しておいた鉄棒でそれをつついた。風がまともに当る辛く危険な作業であった。間もなく右車輪がうまく落下した。同じような作業で左車輪も落ちた。遠か下方の海面に白い水煙があがるのが見えた。しかし、二本の支柱がまだ機体から離れていないのをみて、パングボーンは困ったことになったと思った。
 「ルビコンを渡ったのだ」
 パングボーンはその時の心境をこう表現している。背後の橋を切り落としたのだから、もう泣いても笑っても、とにかくアメリカに着くより仕方がない。そして、首尾よくアメリカに着いたら、その時は何とか着陸できるだろうという、いわば開き直った気持ちだったに違いない。
 千島列島の直接上空を飛行することはあらかじめ禁じられていたから、その沖合を飛びつづけた。ガソリンを消費するに従って、高度の維持が容易になってきた。そして、アリューシャン群島まで三○○マイル付近になった頃夜になった。バングポーンはさらに高度をあげて一万二〇〇〇フィートを保持した。夜が更けるにつれて、山に衝突することを恐れて一万六〇〇〇フィートまであげた。雲は下の方に浮かんでいた。日本を出発してから一八時間経過していた。二人は、北海道の千島の上空で針路の修正を行ってから、次の位置確認目標をアレウト諸島のウナラスカ島火山に置いていた。
  当初、遠くにでも火山の火を見つけられれば、自分たちは進路をほぼ正確に飛行しているものと判断することにしていたが、パングボーンが遥か真下に真紅の火を見つけて、二人は思わず歓声をあげた。闇の中に燃えるウナラスカ島の火山は二人を勇気づけた。自分たちの針路に少しの狂いもなかったことを証明してくれた火山の火が、彼らにはただ嬉しく目に映ったのである。

寒さとのたたかい

 しかし、アリューシャン上空の寒気は想像を超えた。水筒に入れておいた水は高度一万二〇〇〇フィートでもうかちかちに凍ったし、車輪の切り離しのために座席の下にあけた穴から、氷のような冷気が吹き込み、靴をはいている足の感覚がなくなり、靴を脱ぎ捨てて、日本から買ってきた毛の靴下と、麻の靴下を重ねてはき、毛布で足をぐるぐると巻いた。ハンドルを握っている手は皮手袋をしていたにも拘らず、皮膚がさけるような感じであったし、毛布を巻いた足でさえも、すっかりまひしてしまった。そこでハンドルを握っている手を交互にあたためて、片方で操縦していたが、遂にはあまりの寒気に、両手を毛布につっこんだまま、手放しの操縦をして、あわててまたハンドルを握るということを繰り返しでいた。
 幸いなことに、ダッチハーバーまではずっと追い風であった。機は、淋代出発以来一八時問を経過した峙点で、飛行距淳は約二七〇〇マイル、時速一五〇マイルで飛行してきたのだった。
 五日、午前二時、ダッチハーバーを過ぎたころから夜が明けはじめた。寒気は依然として強かったが、ミスビードルは相変わらず一万二〇〇〇から一万六〇〇〇フィートの高度を維持して、快調に飛翔を続けた。
米国ブレマートン海軍根拠地は、ベーリング海峡のセントポール島海軍無電局より、次のような無線通信を受けた。
  「五日午前三時五十五分、フォールスパスで太平洋横断機の爆音を聞いたが、濃霧のため機影を認めることはできなかった。しかし、エンジンの爆音から見て、同機は正しいコースを飛んでいるものと見られる。」

パングボーンの操縦技術  

  パングボーンは、今回の横断飛行の成功の鍵のひとつとして、暴風雨や霧や雲などを避けるために、可能な限り高度を維持して飛ぶことを考えていた。
 従来は長距離飛行に際しては、偏流測定のために低空を飛行して波頭を見る必要があるとされていたが、パングボーンは逆を考えたのである。
 リンドバーグでさえも、大西洋横断飛行成功後は、海洋横断、又は大飛行の時は、できる限り低空を飛ぶ方がよいと述べているほどであったから、そのことは当時の航空界では常識であったに違いない。
 確かに低空を飛ぶことによって、海洋の場合は波頭を観察し、地上の場合は目標物を見てコンパスの修正ができる。特に天候不良で雲のある場合などは最も必要なことであるが、半面非常な危険もあった。
 たとえば、北太平洋は最も霧の発生が多いが、湿度の高い霧が気化器を氷結させるということがしばしば起こった。寒気そのものはエンジンにさしたる影響も与えなかったが、気化器の氷結は致命的である。
  昭和六年九月十一日、パリ〜東京間無着陸飛行を決行したル・ブリ、ドレー、メスマンの三人はドレジュニオンU号に乗って、パリのル・ブルジエ飛行場を出発したが、十二日、ウラル山脈の西方バシキール共和州ウフア付近のベラヤ河とダニベル河との合流点上空を通過の際、機関に故障を生じて墜落、ドレーのみが助かった。この機関の故障も霧による気化器の凍結が原因であった。
 また、リンドバーグの千島での不時着水や報知新聞社の吉原飛行士の千島における失敗なども、みた霧によるエソジントラブルが原因であった。
 しかし、パングボーンが考えていた高空の飛行にも当然難点はあった。
 一つは、雲の多い日は雲上飛行となるため、海上を見ることができないから、波頭による偏流測定は不可能であり、そのため、航路を誤まる危険は大きかった。
 もうひとつは、高空における気温低下のための機翼の結氷である。凍結した氷のために機体の重量が増加する危険性が大いに考えられた。
 パングボーンは、このことを考慮に入れなかったわけではないが、それらの危険性をうわまわる利点が高空飛行にはあると判断したのである。
 それは、高空には、霧や雲がないことである。湿度の高い霧や雲がないことにより、命の綱であるエンジンのトラブルが起こる可能性は少ないと考えたのだ。
 また、太平洋上の高空では、偏西風が吹いているから、追い風に乗ることができ、速力の点でかなりのプラスが期待できる。そう考えたパングボーンは、従来の常識を破って、高空を飛行することを決断し、実行したのであった。
 そして、実際に高空を飛んでみると、パングボーンが予想していたほどには機翼への結氷はひどくなかったが、それでも、たまたま雲の中に突っ込むと、見る見る結氷して高度が下がった。
 そんなときには、そのまま低く降りて、暖かい空気に触れ、氷をとかせばよかったが、ミス・ビードルにとってそれは危険なことであった。アリューシャンの西端アッツ島からアメリカ本土まで、全部霧がこめているという気象通報を事前に受けていたからである。
 幸い、さほどひどい結氷に見舞われることがなかったので、ミス・ビードル号は予定どおりの高度を維持して飛行を統けた。
 淋代を出発してから最初の七〇〇マイルは千島列島を望見しながら並行して飛び、占守島の北端から北七〇度のコースをたどったが、このコースを直進すると、カナダのプリティシュコロンビアのクイーンシャロット島に着くことになる。パングボーンは高空を飛行しているために、途中の気象条件 の変化によってコースを変更させたりする必要がなかった。ひたすら直進したのである。
 アラスカ湾にさしかかった時、大きな層雲にぶつかった。その時は上空に出るとか、迂回する余裕はなかったから、雲の中に突っ込んでいった。たちまち結氷がはじまった。今までの中で特にひどかった。パングボーンは高度を維持するために、四時間程、エ ンジンをフル回転させ、多量のガソリンを消費した。
 この雲を突き抜けてほっとしたかと思うとまた次に、さらに厚い層雲にぶつかった。二人は今度は雲の中に突っ込まずに、コースを多少南にずらし、高度を下げた。
 しかし、このコースの変更が二人にとって幸運をもたらしたのである。クイーンシャーロット島に向かっていたのが、バンクーバー島に近づいて行き、コースとしては近道をたどることになったからである。
 パングボーンはここで、まだ機体にぶらさがっていた着陸装置の支柱の一部分を取り除くことにした。もし、このまま着陸すれば、支柱で機体が突き抜かれる危険があった。
 パングボーンはハーンドンと操縦を交替すると、自分の体を綱でしばって、機翼の支柱にはい出していった。高度は下げていたものの翼には氷が張っていて危険この上もなかったが、モの危険を冒しで翼の支柱を伝わって機体の底部に回り、ねじを外して車輪を支えていた柱をうまく落下させた。
 淋代から約三〇〇〇マイル、アラスカ湾を横切って湾の東端にさしかかった際、突然エンジンがとまった。二人とも瞬間ぎくりとした.が、エンジンはすぐにまた始動し、やがてまた停止して動かなくなった。まだガソリ ンが空になるはずはないしと思っていたから、タンクを替える準備はできていなかった。よくみるとガソリンタンクが空になっているのである。パングボーンはさっそく他のタンクのスイッチに切替えた。この間たちまち数千フィート下降し、すっかりきもを冷やしたのである。
 ハーンドンの仕事のひとつとして、補助タンクのガソリンをメインタンクに手押しポンプで移すことがあったが、二度ほど、メインタンクのガソリンの残量をチエックすることを怠ったために起きたできごとだった。
 パングボーンは一万五〇〇〇フィートの高度から、機体を垂直に急降下させ、プロペラを回転させた。ハーンドンは手押しポンプを懸命に操作してガソリンをエンジンに送った。
 機体が一五〇〇フィートまで降下したとき、黒ずんだアラスカの海が風に吹き荒れている光景が視界いっぱいに広がって、さすがのパングボーンも恐怖に身を固くした。

バンクーバー島の灯を発見

 アメリカ大陸の海岸に近づいて、最初に見えたのはブリティシュコロンビアのパンクーバー島の標識灯であった。
 それまでのほとんどをひとりで操縦してきたパングボーンは着陸に備えて少し眠ることにした。ハーンドンにコースと高度の維持を指示して仮眠した。もし大きな都市の灯を見つけたら起こすように話した。その大きな都市というのはバンクーバーのことであったが、それがなかなか発見できなかった。予定では米国太平洋沿岸時間で四日夜、九時ごろ(日本時間五日午後二時ごろ)にはもうアメリカ海岸の標識灯が見えるはずであったが、それから四時間経過してもまだ発見できなかった。そして漸く待望のバンクーバー島の標識灯を見たのであるが、その間、光さえ見るとすぐに標識灯だと錯覚してあとでそれが光っている星であることが知れて、思わず苦笑したりした。
 しかし、太平洋沿岸時間五日午前一時、二人は確かにバンクーバー島の灯を発見した。その時の歓びを
  「とても筆やことばで表現でき得るものではなかった。世界中の誰にせよ、我々二人以外の者には想像できないほどのうれしさだった。
 その時は少なくともシアトルヘ着くだけのガソリンがまだ十分にタンクに残っているのを知った。
 これでいよいよシアトルまでは確実に着き得る。太平洋無着陸横断はやってのけたのだ。我々の胸 は急に確信でいっぱいになった」
 と表現している。
 太平洋を横断したことの実感が、バンクーバー島の標識灯を見たことによって、二人の胸中にあふれたのかも知れない。
その後の二人は、疲労も睡魔も吹きとんでひたすらバンクーバー島の海岸線の発見につとめた。
 やがて、霧や雲の間から、北米大陸の海岸線が望見できるようになった。そして、時々、無数の街 の灯が美しくまたたいているのも見えた。
 しばらくバンクーバー島の海岸線伝いに南下して、やがてカナダとアメリカの国境にあるジュアン・デ・フーカー海峡に達したとき、方向をシアトルに転じたのである。
 高度一万五〇〇〇フィートで飛行していたから雲の切れ目から街の灯が見えがくれした。それを見て、「シアトルの上空に来たのだ。とうとう淋代から四五〇〇マイルを飛んで、シアトルに到達したんだ」とパングボーンもハーンドンも無言の中に確認しあった。


 最後の決断  

 しかしここで二人は一つの決定を強いられた。それは、このまま燃料がつきるまで
飛行して長距離飛行の世界記録を作るか、一度、どこかの飛行場に着陸した上で、ガソリンを補給し、テキサス州のダラスまで飛んで、イースターウッド大佐の提供する二万五〇〇○ドルの賞金頴得を考えるかのどちらかを選択することであった。
 結局二人は、後者を選んだ。適当な飛行場に着陸してガソリンを補給し、ダラスを目指すことにした。
 そこで、相談の結果、ワシントン州のスポーケンに着陸することに決めた。ガソリンはまだソルトレイクまで飛行可能な量が残っていた。
 スポーケンに向かう途中、前方に巨大な層雲を発見し、それを避けて飛んだが、層雲と見えたのは、一万四〇〇〇フィートのマウント・レニアであった。
 この山の上空を飛んだことにより、二人は現在位置を知ることができたのである。ところが、スポーケン付近に近づくと、濃い霧が一帯を掩い、視界はほとんど利かない状態だった。そんな状況の中では、飛行場 の発見も全く困難であったから、パングボーンは少年時代からよく知っていて、彼の兄と母親が住んでいるワシントン州ウエナッチに着陸することに決めて、引き返しはじめた。
 ウエナッチはシアトルから東へ二五〇キロほどのところにある小都市で、コロンビア川とウエナッチ川の合流点に位置している。周囲を低い山々に囲まれた盆地状の土地で、 コロンビア川をせきとめてダムが完成してから、リソゴ栽培が盛んになり、日本における青森と同様に、アメリカではリ ンゴの生産地としてよく知られていた。
 ウエナッチ上空に達すると、パングボーンが予想していたように、霧はなかった。飛行場には、人々が集まっているのが見えた。
これらの人々は、オパール・パングボーン夫人(パングボーンの母親)と、彼の兄パーシーーパングボーン夫婦、デイリーワールド記者、地方紙の記者と、あと少数の地元民であった。日曜日にジェームス・マネニアスというアマチュア無線家でアレウト諸島のフォルスパスにいる人が、霧の中の頭上を飛行機が飛んでいるのが聞こえたと報告して来たし、月曜日の夜半すぎに、シアトル上空でも爆音を聞いたという報告が入って、もしかしたらパングボーンはウエナッチに着陸するかも知れないと考えた人たちであった。この人たちの予想は的中した。パングボーンはウエナッチの町の上を一旋回してから着陸の準備をはじめた。午前七時をほんの少し過ぎていた。

彼はまず滑走路を詳しく見るために、地上から僅か数十フィートの低空飛行を試みた。可能性は十分であった。再び高く上昇して、今度は残っているガソリンを機上から放出しはじめた。そして旋回しながらその作業を終えると、いよいよ胴体着陸の決行だった。着陸に際して、プロペラの停止位置を、地面と平行にする必要があった。パングボーンは、チャンスをうかがってスイッチを切ったが、生憎プロペラーは 地面に直角の状態で停止してしまった。これでは尾部の軽いミス・ビードル号だから着地の時、プロペラーの先が一寸でも地面にふれれば、機体は逆立ちする危険が十分に考えられる。
 そこでパングボーンは、プロペラーの位置を修正するために、エンジンを停止したまま、風力でプロペラーを回すために急降下した。


つづく

更新日:2011年08月24日

あなたは

Counter

番目の訪問者です 

Since 22 June 2010